河本準一「炎上」問題を糸口にソーシャルメディアを考える

フォロワーが「401,796」か。この数字は『女性セブン』のABC公査部数(半年ごとに発表される平均実売部数)よりも多い。立派なマスメディアである。ツイッターのアカウントは「@Junkoumon」、そう次長課長河本準一である。河本がこれだけ多くのフォロワーを獲得できるのは、テレビというマスメディアに頻繁に顔を出す「有名人」だからである。そのツイートの内容が秀逸であることによって、ツイッターというソーシャルメディアの「内部」でマスメデスアに匹敵する「大きさ」を獲得したのではあるまい。河本からすればツイッターはこれを駆使することで、マスメディアで獲得した人気を維持するための補助メディアの役割を果たしていたと言って良いだろう。それは次のようなツイートの内容からも明らかである。

友近のLIVEに友情出演します。場所は仙台です。是非なぁ。 じゅんを。 5月14日

声が徹子さんの三倍位鼻にかかってるなぁ。 ヘリウム吸ったみたいな声といったらわかるかなぁ。 じゅんを。 5月13日

本人が意図しているかどうかは別にして、テレビタレントにとってツイッターは自身の身辺雑記を発信することでファンとの距離を縮めるという役割を果たしているのだ。ツイッターはプロモーション媒体ということになろう。フォロー数とフォロワー数がかけ離れて非対称的なアカウントは、その手のものが多いと見て間違いあるまい。ちなみに私の場合はフォローが「335」で、フォロワーが「166」という数字である。ツイッターを利用しているということでは私も、河本も変わりはないが、片や週刊誌に匹敵するほどのフォロワーを持ち、片や町内会が使う回覧板の域を出ないフォロワーである。もっとも私の場合でも、私のフォロワーが相当数のフォロワーを抱えている場合など、そうしたフォロワーにリツィートされると予想もつかないような影響力を持つことがある。「166」でそうなのだから「401,796」ともなれば、その影響力はとんでもないものになるだろう。ソーシャルメディアマーケティングのツールとして注目される所以である。
『女性セブン』が「母親が生活保護受給の人気芸人『タダでもらえるならもろとけ』」というタイトルで河本のことを人気芸人「A」として報じたのは4月26日号であり、その後、「A」が河本であることがネット上で発覚し、これを婦人政治家などが問題として取り上げ、マスメディアの俎上にまで波紋を周知のように広げていくのだが、その間、河本は自分のツイートでこの問題を一切取り上げて来なかった。5月26日に次のようにツイートするまで無視して来た。

この度はファンの皆様、関係者の皆様に大変ご迷惑とご心配をおかけしまして本当にごめんなさい。 応援してくださるファンの皆様には舞台やテレビなどで、一日も早く恩返しが出来たらと思います。 これからも次長課長を宜しくお願いします。

ネットでは生活保護を「ナマポ」と言うらしいが、河本は生活保護という四文字、あるいは「ナマポ」という三文字を使うことをここでも拒否している。河本はこの5月26日のツイート以来、今日に至るまでツイッターでは沈黙している。これは、河本の生活保護「不正」受給問題がネットにおいて「炎上」に至ったことを示唆している。「ニユースサイト編集者」という肩書を持つ中川淳一郎は6月2日付の東京新聞で「炎上」をさらに焚き付けた「燃料」は「雑誌のウェブ版からくだんの記事が削除されたことだった」と書いている。

もともと、河本さんが所属する吉本興業は、多くの所属芸人がテレビに出ていることから、ネット上では「事務所が強い故のゴリ押し」とみられ、非難の対象になりがちだつた。記事の削除にも吉本興業がかかわっているとの見方が強まり、同社および河本さん本人の説明を求める声がネットでにわかに高まった。
そこへ、生活保護問題に関心を持っていた複数の国会議員がブログやツイッターで河本さんを名指しし、不正受給は許せないと発言。これにより、河本さんと吉本興業はサンドバッグ状態となったわけだ。

雑誌のウェブ版とは「NEWSポストセブン」を指すのだろう。「NEWSポストセブン」には検索機能がついてる。「河本準一 生活保護」と入力すると、確かに発端となった記事は出て来ない。それはそうだろう。発端となった記事に出て来るのはあくまで「A」であるのだから。しすし、「母親が生活保護受給の人気芸人『タダでもらえるならもろとけ』」という記事の前半部分にあたる「母親が生活保護受給の人気芸人」を入力して検索をかけるとくだんの議事を発見できる。また、関連記事として「『年収5000万円』人気芸人の母親が生活保護受給の違和感」も紹介される。それとも削除されているのは何か別の記事なのだろうか。要するに検索の難しさが「ニユースサイト編集者」をして、「雑誌のウェブ版からくだんの記事が削除された」と思わせてしまったのだろう。プロの「ニユースサイト編集者」からして、削除したと思ってしまったのだから、それこそこの問題に関心を持った大半のネットユーザーもそう思ってしまったということなのではないだろうか。しつこいようだが削除された「くだんの記事」に対する認識が中川と私では違う可能性があるだろう。そうであれば中川はどの記事であるかをタイトルを出して置くべきだろう。
私は「炎上」を焚き付けた「燃料」として大きな役割を果たしたのは河本自身のツイートであると思っている。『女性セブン』が匿名で報じた4月中旬から先に紹介した5月26日のお詫びツイートまで、この件について河本がツイッターで一言も触れず、いつもながらのツイートをしていたことが「燃料」になったのである。しかも、5月26日のお詫びツイートにしても、問題の核心を示す「生活保護」という言葉がなかったことが、やはり「燃料」になったはずである。河本のフォロワーにしても、またこの一件をテレビのワイドショーで知り、ツイッターで河本を検索し、そのTLを見た野次馬からしても、河本が『女性セブン』の問題提起に始まった一連の生活保護「不正」受給問題に触れていないことに違和感を持ったに違いない。かくして河本のツイッターのTLに河本を批判するメンションが中川の東京新聞の文章によれば続々と送られて来たのだろう。もし河本がツイッターで婦人国会議員に反論かるなり、メディアの取り上げ方に反論したり、あるいは生活保護を受け取り続けていた理由を率直にツイートしていたならば、「炎上」は同じようにしたかもしれないが、バッシングに対するブレーキの役割は果たしていたかもしれない。もっとも私が河本のTLを見たのは今日のことだから、それ以前に実はこの問題に触れたツイートをしていて、後で削除したということも考えられるだろう。しかし、仮にそうだとしても、今度は削除したということが「燃料」になるはずである。
「私」という最小単位のメディアをソーシャルメディアは成立させる。そのことに河本は無自覚であり過ぎたのだ。河本はソーシャルメディアの双方向性を甘く見て、影響力をほぼ一方的に行使できるマスメディアのようにしか使っていなかったことが炎上の燃料になってしまったのである。影響力をほぼ一方的に行使できるマスメディアのように使うということは、民衆の誰もがメディアであるということにおいて、民衆の誰に対しても開かれているソーシャルメディアにあって、民衆との交通回路(=コミュニケーション)を自ら切断してしまうということにほかなるまい。民衆のマスメディアに対して日頃から抱いている反感がソーシャルメディアをマスメディアのごとく扱っていた河本準一という個人にルサンチマンとして向かっていったのである。「炎上」である。ルサンチマンを単純に民衆の屈折した心理として理解してはなるまい。それは民衆の心情を貶めることであるし、マスメディアが内在的に孕む民衆に対する支配層(なり前衛層)の差別意識に加担することでもある。誤解されては困るが私はソーシャルメディアで自分自身の感情を無制限に吐露することを否定しているのではない。しかし、感情を吐露できるということは、絶えず感情を吐露されることを覚悟していなければならず、そうしたルサンチマンに結集する感情を解放する回路を第一義的にはその感情にさらされる個人が創造する努力がソーシャルメディアを使うにあたっては誰もが問われているのだ。ルサンチマンを解放する回路は「対話」のなかにしかあるまい。それはソクラテスが生業とした「対話」である。
ソクラテスは書物を一冊も書かなかった。ひたすら町の人々と「対話」することを仕事とした。もちろん、ソクラテスが告発され、裁判にかけられ、死刑の宣告を受けたのは、その「対話」によって相手を追い詰めて(アポリアに直面させて!)しまったからであろう。ソクラテスアポリアの「共有」を目指したが、世間は必ずしも「共有」を是としなかった。ソクラテスにとって「対話」は自他を吟味する「哲学」にほかならなかったが、世間から害毒を及ぼすとして指弾されてしまったということである。ソーシャルメディアにおいても「対話」によるアポリアの「共有」が問われているはずだ。
ソクラテスは毒杯をあおって死に至る。ソーシャルメディアを死に至らしめてはなるまい。「われわれのメディア」として育て上げるのだ。