解体過程に入った民主党―政党政治の終焉

朝日新聞は消費増税という言葉を一切使っていない6月5日付社説「一体改革協議―首相が陣頭指揮に立て」で次のように書いている。

全党で協議するといっても、最初から立場が違う党と折り合うのは難しい。この局面では、首相が会見で語ったように、野党第1党の自民との協議を優先するしかあるまい。
修正協議の担当者の顔ぶれも重要だ。首相の意を体し、自民党との合意づくりに真剣にのぞむ人材を選ぶべきだ。
首相は、党役員に「毎日的確な情報を上げるように。必要な判断は私がする」と指示したという。その言葉通り、首相は退路を断って、みずから陣頭指揮をとるほかない。

朝日新聞は「社会保障と税の一体改革関連法案」という名のもとで民主党野田佳彦内閣が実現しようとしている消費増税について、自民党との協調を煽っているわけだが、こうした情況が政党政治の危機であるとは想像もしないのだろうか。毎日新聞の6月5日付社説「野田再改造内閣 修正合意への重い使命」にしても、読売新聞の6月4日付社説「内閣改造へ 消費税修正協議の環境整うか」でも、雁首をそろえて同じような論調である。何故、消費増税について民主党自民党の間に本質的な対立がないことを問題にしないのだろうか。私には不思議でならない。
国民が2009年8月30日の総選挙で民主党に大勝させたのは、それまで政権を担っていた自民党とは別の政治が政権交代によって実現されること期待してのものであった。民衆がイメージしていた自民党とは別の政治とは「国民の生活が第一」という政治であり、「コンクリートではなく、人間を大事にする政治」であり、「官僚丸投げの政治」(=主権在官)から「政権党が責任を持つ政治家主導の政治」への転換であったはずである。しかし、首相が鳩山由紀夫、菅 直人、野田佳彦と代わるごとに自民党と同じ政治しか民主党には実現できないことが明らかになっていった。民主党が総選挙のマニュフェストで掲げた政策は次々に反故にされていった。挙句の果て、野田政権の自民党に対する露骨なまでの擦り寄りは、民主党自民党と理念的に一体化しつつあることを満天下に知らしめたと言って良いだろう。野田佳彦自民党との一体化に「みずから陣頭指揮」をもってアクセルを踏めるのは、もともと民主党に綱領という共通の政治目標が存在していなかったからであろう。政党が綱領を共有する人々からなる結社であるとするならば、民主党は政党の体をなしていなかったのである。私は大隈重信明治14年(1881)に次のように書いていることを坂野潤治の『日本近代史』で知った。

政党を成立せんと欲する時は、すなわち持張する施政の主義を定めざるべからず。

民主党は「持張する施政の主義」たるマニュフェストをかなぐり捨てたそれでは政党として成立し得ないにもかかわらず、だ。
政治はしばしば敵から学ばなければならないのは昔からの真理であるにしても、民主党自民党と名称が違うだけで実現しようとしている政治の中身が同じだと知れば、誰も民主党に期待しまい。民主党自民党と同じであれば、自民党で良いのである。次の総選挙で民主党が大敗するのは間違いあるまい。しかし、だからといって自民党が選挙で大勝することも考え難い。現在の民主党自民党と同じ政治に不満だということは、自民党政権交代しても、現在と同じ政治が継続されるだけなのだから、どっちがやっても同じなのである。民衆の政治不信の核心部分は政党不信に他なるまい。「毎日新聞世論調査では次期衆院選比例代表大阪維新の会を投票先にあげた人は28%で、民自両党を圧倒した」(毎日新聞6月5日付社説)のは当然のことだろう。
1994年に実現した小選挙区比例代表並立制政党交付金の導入を柱とする政治改革がここに挫折したのである。確かに政治は政党政治の理想とする二大政党制に収斂しはしたが、政権獲得だけしか念頭にない政党が極めて属人的なレベルでの党利党略に明け暮れるだけの政治しか実現できなかったのである。国民の意志に従って、政権交代はしてみたものの民主党政治は自民党政治との違いを遂に創造できず、野田佳彦が首相の座に就くや何かにとりつかれたように消費増税に邁進していったが、これをきっかけに民主党は政党として解体過程に入ってしまったのである。既存政党は「自沈」の危機にあるのではなく、既に「自沈」してしまっているのかもしれない。どの世論調査でも支持政党に関して「支持政党なし」という回答が多いのもこのためであろう。明らかに歴史は繰り返された。
わが国の政党政治が最初に成立したのは大正7年原敬内閣であり、政友会、憲政会、革新倶楽部護憲三派が総選挙で大勝し、大正13年六月加藤高明内閣が成立して以後、若槻礼次郎内閣、田中義一内閣、浜口雄幸内閣、第二次若槻内閣、犬養毅内閣と衆議院第一党が組織する内閣が成立し、いわゆる「憲政の常道」を確立した。しかし、内実は「官僚丸投げの政治」を克服することができず、昭和7年に5.15事件で犬養毅が暗殺されると、二度と政党内閣は組織されなかった。しかし、政党政治に終止符が打たれたのはテロによってではない。テロはあくまで引き金にしか過ぎなかった。政党は「自沈」してしまったのである。世界恐慌によって直撃を受けた国民の生活などそっちのけで党利党略に淫した政党の腐敗こそが政党政治を機能不全に至らしめたのである。遂に政党政治が復活することなく、軍部が台頭していったのは、民衆が軍部による政治の刷新を支持したからでもある。昭和初期と現在において違うのは、テロによって首相は斃れていないし、政党不信の裏返しとして軍部が台頭するのではなく、大阪市長橋下徹の国政進出に対する期待感が高まっているというところだろうか。
いずれにせよ、政党政治にとって、もっとも危険なことは、民主党にしても、自民党にしても自らの失敗を認めるのを恐れることであり、その失敗から何も学ばないことである。失敗を認め、失敗から学ばない限り、歴史は何度でも繰り返すだろう。坂野潤治ではないが、「『政治』というものの進歩は、きわめて遅い」ようである。