代議制民主主義の限界を超えるために

本来であれば、民主党野田佳彦を首相とする政権は、2009年総選挙の際に掲げたマニフェストで公約しなかった消費増税を政治の最大のテーマとした段階で、野田は大新聞の社説など気にすることなく堂々と衆議院を解散し、総選挙で国民の信を問うべきであった。民主党自民党がともに消費増税を掲げて総選挙を実施したならば民主党は大敗し、自民党が政権に復帰したことだろう。
主権者は民主党の「転向」を許さず、どうせ消費増税が実現されるのであれば、前から消費増税を主張していた自民党を選択したことは間違いあるまい。どのみち消費増税は実施されるのだから、総選挙を実施しても意味はないと野田や民主党の連中が考えていたとしたならば、そうした考えは間違いである。総選挙を実施せずに民主党政権によって進められる消費増税は「民意」を無視することに他ならないが、自民党民主党がともに消費増税を掲げて総選挙を戦い、そのうえで成立した自民党政権による消費増税であれば、民意を反映した消費増税である。しかし、野田佳彦はそうした最大限、民意を反映させるための手順を踏まずに消費増税を強行した。しかも、自民党に擦り寄り、民主党自民党公明党の三党によって消費増税法案は衆議院で可決された。ここで三党は改めて大連立協議にでも入るのかと思いきや、そうはならなかった。党利党略といってしまえば、それまでだが、自民党からすれば連立など組まなくとも、ここで総選挙を実施すれば政権復帰が可能だという判断が働いたのであろう。消費増税法案成立後の総選挙を求め始めた。
一方、民主党は、消費増税法案を衆議院で可決させる過程で数多くの離党者を排出した。衆議院で反対票を投じた元代表小沢一郎を支持するグループは集団離党し、「国民の生活が第一」を結党、最大野党となった。消費増税法案の審議は舞台を参議院に移すことになったが、最大野党となった「国民の生活が第一」をはじめ、みんなの党社民党共産党などの野党が衆議院に内閣不信任案を、参議院に首相問責決議案を提出するのはある意味で理にかなっている。しかし、ここで不思議なことが起こるのだ。何と自民党が三党合意を破棄してまでも、解散総選挙の早期実施を求めて内閣不信任案、首相問責決議案を独自に提出すると自民党が主張しはじめたのである。民主党自民党に対する不誠実な対応に自民党が業を煮やしたというよりも、自民党の政権復帰への欲望が政局を作り出すことになったと見るべきである。内閣不信任案は衆議院で否決されたとしても、参議院では首相問責決議案が可決される可能性は高く、そうなると参議院の審議はストップし、消費増税法案の成立は難しくなる。
こうした政局に対して大新聞は右から左まで猛反発する。

法案成立と引き換えに早期の衆院選に持ち込もうとするのは、一体改革という国益を“人質”に取るような手法ではないか。
問責決議案や内閣不信任案が出されれば、国会は混乱し、法案は廃案になりかねない。
その場合、3党合意の瓦解どころか、日本の政治そのものが内外の信用を失うだろう。 8月7日付讀賣新聞「一体改革法案 党首会談で事態を打開せよ」

自民党の姿勢によっては、関連法案の成立が危うくなりかねない。
首相と谷垣自民党総裁にあらためて求める。
ここは一体改革の実行が最優先だ。両党首が先頭にたって事態を打開し、関連法案の成立を確実にすべきだ。 8月8日付朝日新聞「民・自対立―3党合意に立ちかえれ」

消費増税の是非とは別に「とにかく解散をさせたい」自民党の党利と、「とにかく解散がこわい」民主党の党略ばかりが先立つ。これではほとんどの人は「またか」と幻滅し、うんざりするばかりではないか。政治の劣化こそ、今回の騒動の本質であろう。
とりわけ、国民の目を意識してほしいのは自民党だ。
民主党に度重なる譲歩を強い、合意に至りながら「衆院解散を確約しなければ合意破棄」とエスカレートした対応はあまりに唐突だった。 8月8日付毎日新聞「混迷する国会 政争の愚を党首は悟れ」

結局、政局の更なる流動化は首相の野田佳彦自民党総裁谷垣禎一が国民不在の党首会談を8月8日夜に行い、消費増税法案の今国会での成立で合意するとともに自民党が法案成立後に求める解散総選挙に関しては「近いうちに国民の信を問う」ことを確認した。消費増税の推進役を果たして来た大新聞もホッと息を撫で下ろす。

「何も決められない政治」に再び戻る危機はどうにか回避された。自民党が強硬路線の矛を収めたことを、まずは歓迎したい。 8月9日付毎日新聞「党首会談合意 自民の譲歩を歓迎する」

改革の頓挫という最悪の事態だけは避けられた。 8月9日付朝日新聞「一体改革成立へ―解散前にやるべきこと」

日本政治の危機は瀬戸際で回避された。民主、自民、公明3党の党首が良識をもって対処したことを評価したい。8月9日付讀賣新聞「民自公党首合意 一体改革の再確認を評価する」

私はこうした新聞の社説に違和感を禁じえない。なぜなら、大新聞の論調は「民意」を最初から無視していた。野田政権がマニフェストに記載されていない消費増税を断行しようというのであれば、法案を国会に提出する前に解散総選挙を実施すべきであったのだ。国民に「信」を問わずして消費増税を強行しようとする政治を批判して然るべきであったのに、三大紙は揃って消費増税の推進役を果たすだけであった。国民主権は蔑ろにされたのである。税と安全保障は近代国民国家の根幹にかかわる問題である。その重大な変更を決定するに際して「民意」をもって「政治」を動かせなかったのである。つまり、主権者は「政治」から疎外されてしまったのである。これこそ民主主義の危機であったのではないか。そのことに大新聞が揃いも揃って、このことに触れていないのは、大新聞が本質的には国家のイデオロギー装置としての役割を担うにしても、そのことを認めても尚ジャーナリズムの堕落と言わねばならないほど、マスジャーナリズムは機能不全に陥ってしまったのである。
新聞のように民主主義の現段階を絶対視して良いものなのだろうか。私はそうは思わない。「民意」を無視して暴走する政治を前にして現状の間接(代議制)民主主義に限界を見ないわけにはいかない。まず、民主党の野田内閣がしたように総選挙で掲げたマニフェストを反故にして消費増税強行を図ろうとした場合、主権者にリコール権が認められていれば、さしもの民主党とて解散総選挙を経ずに消費増税を強行することはできなくなるはずである。あるいは税や安全保障といった近代国民国家の根幹にかかわる部分での政策変更にかかわる問題に際しては、主権者が直接決定に関与できる国民投票といった仕組を間接民主主義の枠内であっても設けることはできるはずだ。間接民主主義が直接民主主義的な制度や仕組を取り入れていくことが「これからの民主主義」の課題なのではあるまいか。民主主義は国家を開いていく力学を必然的に伴っていることは間違いなく、国家を開いていくということは、直接性を繰り込んでいくことにほかならない。また、20世紀末から始まったデジタル革命が「中間」を排除していく力学を働かせていることも無視してはなるまい。「政治」にデジタル革命が及ぶということは、税や安全保障といった近代国民国家にとって根幹にあたる問題において主権者が投票で選んだ代議員によって構成される「議会」で何かを決定するのではなく、主権者たる国民が直接投票によって何かを決定することを可能にするということである。国会、内閣、マスメディアは「これまでの民主主義」に胡坐をかいているばかりでなく、「これからの民主主義」をしかと見据えて欲しいものである。民主主義を根本において把握することを怠ってはなるまい。