保守の変質について

新聞報道によれば民主党の代表選挙は野田佳彦の再選が濃厚だという。野田は解散総選挙の結果、民主党が野党という定位置に戻るまで総理大臣をつづけることになるわけだ。別に新聞が報道しなくとも、代表選に立候補した顔ぶれをみれば、他の候補が代表に選ばれることなど万に一つもないことが民主党員でなくとも理解できるだろう。一方の自民党総裁選は野田の次の総理大臣を選ぶことになるわけだが、相対的には石破茂が良いとは思っていても、海兵隊構想などを聞かされると、首相の器として首を傾げざるを得ない。日本に海兵隊を発足させたところで、日米同盟を基軸にする限り、在沖縄のアメリ海兵隊の「下請け」を担わされるだけである。自民党は自主やら自助という言葉が好きだが、結党以来、一貫してアメリカからの自立をタブーにしてきた政党である。もっとも55年体制と言われた自民党独裁の政治は、アメリカからの自立を放棄することと引きかえに「保守」ならではの狡賢い知恵を発揮していたが、小選挙区制が導入され、55年体制が崩壊していくと、これに歩調を合わせるかのように日本の政治は「保守」ならではの狡賢い知恵を摩滅させていくばかりである。こうした情況にあって、有権者は狡賢い知恵がないのなら、せめて威勢の良さを「保守」に期待することになり、政治家の側もこぞってタカ派ぶりを誇示するに至り(谷垣禎一の末路を見よ!)日本の代議制を前提とする政治は「右」の強度を強めていくことになる。「右」と言っても日本独自の農本主義などに起源を持つのではなく、アメリカ発の新自由主義を心棒とする属米の「右」である。三島由紀夫を念頭に置いて言うのだが、文化概念として天皇を制度として軽く1000年以上にわたって受け入れて来た日本にとって、明らかに異質な「右」が根付こうとしているのである。民主党の代表にしても、自民党の総裁にしても、日本維新の会橋下徹でも同じなのである。そうしたなかにあって民主主義のルールや手続きに本来はリベラルの側が得意とすべきイノベーションを持ち込んだのが日本維新の会橋下徹であり、その府知事、市長としての手法の鮮やかさが民衆の支持を集め始めているということである、現在の政治情況は。私はこんな政治情況に希望は抱かないにしても、絶望だけはしないようにしている。それが私のリアリズムなのである。だから、来るべき総選挙においては積極的に一票を投じるのではなく、嫌々ながら一票を投じることにする。はっきり言えば野田佳彦には一票を投じないないということだ。野田は私の選挙区から立候補しているのだ。
日本の政治にリベラルや社民主義が根付かなかったのは、リベラルや社民主義を支える政治思想なり政治理念が土着の回路を見いだしえなかったからである。たとえ欧米に起源を持つリベラリズム社民主義の衣を纏ったとしても、ナショナリズムに接続できず、政治党派としては、日本そのものから孤立してしまう歴史を繰り返すばかりであった。彼らの平和主義に特徴的なのだが、日本の民衆の土着ナショナリズムに正面から向き合うことができないから、日本国憲法アメリカに押し付けられたという事実から目を背け、憲法9条にしがみつくことによってしか平和主義を語れなくなってしまったのである。要するにインターナショナリズムにおいても半端であるということだ。リベラルや社民主義ばかりでなく、マルクス主義にしても現実政治では同じような末路を辿るしかなかったのである。しかも、孤立に耐え切れなくなって(それこそ自立を断念することだ)、借り物の衣を一度脱ぎ捨てると、いとも簡単に(恥も外聞もなく)、過去はなかったすのように今度はナショナリズムそのものに逃げ込んでしまうのである。
9月20日付の東京新聞によれば、自民党総裁選、民主党代表選の候補たちに「保守かリベラルか」という質問をぶつけたところ、野田佳彦は「保守政治家と自負している」と答えたそうだが、野田に保守政治家を自負されては、どんな保守政治家にとっても迷惑千万な話ではないだろうか。それほど野田佳彦政権運営は混乱し、迷走をつづけている。野田を首相とする政府は脱原発の激しい世論に肩を押されて「2030年代に原発稼動ゼロを可能にするよう、あらゆる政策資源を投入する」という「革新的・エネルギー環境戦略」を発表したが、これを閣議決定しなかった。閣議決定から「2030年代に原発稼動ゼロ」という肝心な要な文言は消え、新聞報道によれば「革新的・エネルギー環境戦略」を「踏まえて、関係自治体や国際社会などと責任ある議論を行い、国民の理解を得つつ、柔軟性を持って不断の検証と見直しを行いながら遂行する」という短い文章に閣議決定はとどまった。東京新聞が社説で書いていたように「踏まえる」とは「参考にする」という程度の意味しか持つまい。格好の良いアドバルーンを揚げては見ても、尻切れ蜻蛉に終るのが民主党政権の常ではあるが、原発戦略にしても同じ手口をやってみせてくれたのである。閣議決定すらできないのであれば、最初から「原発稼動ゼロ」などと出来もしないことを調子良く言うべきではなかろう。こんなことで野田はよくも保守政治家を自負できたものである。野田に保守政治家としての自負があるとすれば、最初から「原発稼動ゼロ」と言うべきではなかったはずだ。原子力規制委員会の委員長人事でも到底、保守政治家として自負できるような決め方ではなかろう。本来、国会同意人事であるにもかかわらず、そうしなかったのである。「国会の閉会または衆院解散のために両議院の同意を得られない時は、首相が任命できる」と原子力規制委員会設置法付則二条に例外規定があるのを抜け道として閣議で決定してしまったのである。野党の自民党公明党がこの同意人事の採決には応じるとしていたにもかかわらず、民主党内から人事案に反発が出ていたため、国会での採決を忌避してしまったというわけである。言うまでもなく国会は国権の最高機関であると憲法にも規定されている。そうした国会の同意を軽視する野田佳彦の政治手法は民主主義の破壊者のそれである。言うまでもなく保守政治家は「タカ派」であったとしても民主主義の破壊者ではあるまい。野田佳彦に保守政治家を自負する資格などないということである。野田をもって民主党政権はもう懲り懲りだという有権者は多かろう。しかし、自民党が政権に復帰して、民主党よりもマシな政治が実現するのかといえば、これまた疑問符をつけざるを得まい。そんなことは誰だって承知しているのだ。国政選挙に際して嫌々投票に向かうのは何も私に限ったことではないに違いない。しかし、このような閉塞感に絶望はすまい。「戦前」を「戦中」にしないためには、政治に希望が持てなくとも、取り敢えず絶望を禁じることだ。何故なら、この手の絶望には必ずと言って良いほどロマン主義が芽生えるからである。ロマン主義は土着と、いとも容易に接続する。