戦争について

尖閣諸島問題もあってツイッターのTLに「戦争」という言葉が多く踊っているので、「戦争」について私がどう考えているかを簡単ではあるが明らかにしておくことにする。
近代国民国家は「戦争」をするにあたって、国民を兵隊として動員しなければならず、徴兵するからには国民に「戦争」の正当性を納得させなければならない。その正当性はただ一つである。「戦争」は国民が国家に保障された国民としての諸権利を守りでつづけるための「自衛戦争」でなければならないということである。そうでなければ、国民は兵士として「戦争」に生命を賭けるだけの価値を見いだせないのである。近代国民国家にとって主観的には総ての「戦争」は自衛権の発動として戦われることになる。むろん、国家の支配層が「自衛戦争」でもないのに本質を隠蔽して国民を騙して「戦争」に駆り立てることもあれば、主観的には自衛権の発動であっても、その正当性が他国や複数の国家が集う国際機関の主観によって、どのように評価されるかは別である。自衛戦争として戦われた「戦争」がその勝敗にかかわりなく侵略戦争と断罪されることもあるということだし、逆に本質的には侵略戦争であろうとも、自衛戦争として賞賛されることもあり得るのである。そういう意味では「戦争」にかかわる歴史的評価は、昭和天皇の指摘を待つまでもなく、すべからく「文学」の問題であるのだ。国家間において歴史を共有することはできても、歴史的評価を共有できないのは、このためである。「戦争」は最終的には「文学」として合理化されるのである。「文学」を「平和」と読み替えても一向に差し支えあるまい。

参考までに
「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」(クラウゼヴィッツ)
「法的意味においては、戦争とは、二つあるいはそれ以上の政治集団が軍事力により対立を解決するようにひとしく権利を与えられた状況、と考えられる。」
社会学的な意味においては、戦争とは、かなりの規模の軍事力によって行われる政治集団間の対立、をいう」(Q・ライト)
「戦争とは、二つあるいはそれ以上の政治体間の軍事力による継続する対立によって特徴づけられた、闘争の一時的状態である」(G・J・シャミス)
「戦争は、始めたいときに始められるが、やめたいときにはやめられない」(マキアヴェリ)
「政治が一定の段階にまで発展して、もうそれ以上従来どおりには前進できなくなると、政治の途上によこたわる障害を一掃するために戦争が勃発する」(毛沢東)