「私は将来結婚して、子供が産めるの?」と尿からセシウムが検出された福島の小さな女の子に聞かれたならば・・・

次のようなツイートが目にとまった。ささやいたのは中下大樹 。昨年、『悲しむ力』を上梓した仏教者である。

「私は将来結婚して、子供が産めるの?」と尋ねる福島の小さな女の子。恥ずかしながら、私は何と答えたら良いのか、分からなかった。この小さな女の子の尿からは既にセシウムが検出されています。皆さんがこの女の子から同じことを聞かれたら、どのようにお答えになりますか?

‏もし私が自分の娘が小学生の「小さな女の子」であり、同じように「私は将来結婚して、子供が産めるの?」と聞かれたら、正直に答えるしかないなと思う。こんな具合に答えるだろう。

結婚したからといって子供が産まれるかどうかオレにもわからないんだよ。恐らく誰もわからないはずさ。子供が授かる場合もあるし、授からない場合もある。理由は様々だよね。産みたくても授からないということもあるし、色々な理由で子供を産まないという選択もあるんだ。現に僕の友人の××は結婚しているけれど子供はいないよね。逆に○○のところは子供が5人もいる。

娘が納得するかどうかわからないにしても、こうとしか私は答えられないだろう。もっとも、これでは中下の問いに答えたことになるまい。というのは中下の問いには「小さな女の子」といっても「福島の」と限定されているからだ。しかも、「この小さな女の子の尿からは既にセシウムが検出されて」いるという。この問いには福島第一原発の過酷事故によってばら撒かれた放射性物質による「被曝」の問題をどう考えるのかという問いも含まれているというか、誤解を恐れずに言えば密輸入されているのだ。
中下からすれば、放射線物質を撒き散らされ、そのことによって棄民を強いられてしまっている福島の人々の惨状を訴えたいという単純な動機だったのかもしれない。しかし、私はここで中下のように何と答えたら良いかわからないという思考停止に陥るわけにはいくまい。それでは被曝ファシストや被曝スターリニストの術中にはまり、情緒主義的なイデオロギーに足もとをすくわれるだけだし、最終的には彼らの「政治」に利用されるだけである。結局、私はこう答えるしかないだろう。

結婚したからといって子供が産まれるかどうかオレにもわからないんだよ。恐らく誰もわからないはずさ。子供が授かる場合もあるし、授からない場合もある。理由は様々だよね。産みたくても授からないということもあるし、色々な理由で子供を産まないという選択もあるんだ。現に僕の友人の××は結婚しているけれど子供はいないよね。逆に○○のところは子供が5人もいる。

そう娘に答えるのと全く同じ答え方を私であればする。福島の尿から既にセシウムが検出されている女の子に対してであれ、自分の娘に対してであれ、「私は将来結婚して、子供が産めるの?」という問いに対して「本当のこと」を言うとすれば、こう言うしかないのではないだろうか。そこで医学的な知見を多少なりともひけらかすこともできるだろう。
医者など放射線医学の専門家であれば、現在のセシウム量で子供が産めなくなることはないと言うに違いないし、そう言えば良いと思う。セシウムに対する過度な心配は無用である。しかし、放射線医学の門外漢であれば、私の答え方で十分なのではないだろうか。
私はこうした類の問いに直面すると、いつも親鸞であればどう答えるだろうかと考えることにしている。別に私は親鸞の熱烈なる信者ではないが、わが国の歴史上、親鸞ほど人間に真正面から向きあった人物を私は他に知らない。私の不勉強のゆえではあるにしても、そこを差っ引いても親鸞は相当に大きな存在であると思っている。
歎異抄』にはとても印象的な場面がある。唯円が「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」と親鸞に尋ねる。唯円南無阿弥陀仏と念仏を唱えても喜べないし、心も躍らないし、一刻も早く極楽浄土に行きたいとも思わないのは、どうしてなのかと聞いているのだ。小さな女の子が「私は将来結婚して、子供が産めるの?」と聞くのと同じである。
これに対して親鸞は何と答えたのかと言えば、「親鸞もこの心、疑問に思っていたのだが、唯円房おまえもか」と、いとも簡単に自分もそうなんだと認めてしまう。そこで思考停止に陥るわけでもなく、偉そうに知識をひけらかすでもなく、ずるがしこくフィクションをイデオロギーとしてデッチあげるでもなく、あっさりと認めてしまう。
何故、親鸞があっさりと認めてしまったかといえば、それが「本当のこと」にほかならないからだろう。親鸞は「本当のこと」から目を背けなかったのである。わからないことをわからないと言わない限り、「煩悩」の塊たる人間は「真理」には辿り着けないと親鸞は考えたに違いない。