高野山フィールドワーク 三昧聖と禿法師の痕跡を訪ねて

写真を使ってブログを書いてみようと思う。ブログで写真を使うのは初めてのことだ。私の場合、ブログといったところで、アナログ的な発想しかなかったわけである。では写真をアップ!

一枚の古地図。江戸時代のものである。場所はどこかと言えば高野山比叡山と並ぶ日本仏教の聖地である。高野山という山は存在しない。今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山という八つの山に囲まれた盆地状の平地に空海が修業の場として開いた比叡山と並ぶ日本仏教の聖地である。より正確に言うのであれば日本仏教における「知」の聖地であり、「信」の聖地であると書くべきか。それは空海の二面性によるものであろう。空海密教における「知」の巨人であると同時に「信仰」の対象でもあるということだ。言うまでもなく「空海信仰」を生んだのは空海自身ではないにしても、空海の「知」と空海に対する「信」が今も表裏一体となった宗教都市が高野山なのである。「信」に重心を置いて言うのであれば、高野山そのものが此岸とは一線を画す「あの世」にほかならない。高野山そのものが立体曼荼羅となっているのである。九度山町慈尊院から大塔までの180町が胎蔵界、大塔から奥の院までの36町が金剛界を表象する。高野山には一町ごとに町石が立っている。一町は約80メートル。その高野山に私は猛暑を逃れるように久しぶりに訪ねた。これで三度目になる。今回は「全国部落史研究大会」に参加するのが目的であった。その際、8月5日に行われたフィールドワークの記録である。
大門である。高さ25m、間口21m、奥行8mというサイズ。高野山の西の端にあり、一山全体の総門である。現在の大門は宝永2年(1705)に再建されたものを昭和62年(1987)に修復したものである。もともと大門は鳥居であったが、永治元年(1141)からのこと。大門にしてもそうだが、高野山の建築物にそれほど古いものはない。落雷などを原因に焼失を繰り返している。ここから空海は毎日、奥の院から姿を現しては生前に巡った全国各地を訪れているという。そうした空海に対する信仰は間違いなく生きている。
壇上伽藍は高野山の心臓部でもある。根本大塔は胎蔵界、西塔は金剛界をあらわす、ここもまた曼荼羅の世界である。世界とは曼荼羅であり、曼荼羅が総てという世界観に高野山は貫かれているのだ。鎌倉時代に書かれた『高野山礼記』にはこうあるそうだ。
「一度地をふめば、無始無終悉く滅すべし。疑を生ずること有るべからず」

根本大塔である。この官能的な朱色色こそ真言密教の核心部分なのであろう。根本大塔は空海が入定してから50年ほどで完成しているが、ここも何度も焼失している。焼失から再建に至るまで最も時間がかかったのは、現在の根本大塔である。天保14年(1843)に焼失し、再建されたのは昭和12年(1937)になってからのことである。

金堂。ここが総本堂であり、年中行事の大半はここで行われる。壇上伽藍で根本大塔に次いで重要な意味というか、歴史的な示唆を与えてくれるのが、御社だろう。

空海弘仁10年(819)に高野山の鎮守として勧進されたと伝えられているが、空海以前の遺物が近年になって発見された。すなわち、空海以前のこの地にあった山に住む人々の「信仰」を示唆しているのだ。そうした「信仰」と空海の「知」が何らかの化学反応を起こした可能性もあるということである。様々な空海伝説にはそうした古層の「信仰」が反映しているかもしれないのだ。
さて、いよいよ奥の院へ。ここからが今回の小さな旅の最大の目的ともいえる。高野山の言わば空海以後の「正史」が疎外してきた部分とでも言おうか。いや本来であれば「正史」の一部として綴られなければならなかったにもかかわらず、避けて通って来たの歴史の重要な痕跡を奥の院で辿ってきたのである。むろん、言うまでもなく、貧しき人々、迫害された人々、差別・賎視された人々もまた弘法大師空海に救いを求め、弘法大師空海に一縷の希望をもってすがるべく高野山を目指したのである。権力者にとっても、また民衆にとっても高野山は「一度地をふめば、無始無終悉く滅すべし。疑を生ずること有るべからず」なのである。弘法大師空海という信仰は誰に対しても開かれていなければならないのだ。

ここが奥の院口である。この場から右の道を選択すると、次のような光景が入って来る。

江戸時代の古地図から類推するならば、三昧聖の住居はこの辺りにあったと類推できる。


三昧聖とは、死者の埋葬や墓地の管理などに携わることでケガレ意識を引き受けざるを得なかった被差別身分の総称であるが、ここ高野山では「谷の者」と呼ばれていたという。ここでは日本大百科全書(ニッポニカ)における丹生谷哲一の解説を引用しておこう。

死者の埋葬に従った下法師(げほうし)。「廟聖(びょうひじり)」ともいう。三昧とは、本来、念仏三昧・法華(ほっけ)三昧など「専心する」意であるが、平安時代以来、墓所を意味する語(五三昧(ござんまい))となり、もっぱら埋葬・墓守の事に従う者が三昧聖とよばれるようになったのである。1501年(文亀元)に前関白九条政基和泉国(いずみのくに)日根荘(ひねのしょう)に下向、直務(じきむ)支配に当たったときの日記『政基公旅引付(まさもとこうたびひきつけ)』には、「当道(とうどう)(三昧)之儀ハ更ニ敵御方(てきみかた)之沙汰(さた)ニ及バザル也、田ノ一枚モ作ラズ、只当道ノ職バカリニテ渡世」している日根荘の三昧聖や、和泉国取石宿(とろすしゅく)の三昧堂に住んで囚人を預かる三昧聖の姿が記されている。近世には五畿内(ごきない)および近江(おうみ)・丹波の三昧聖は東大寺大勧進職(だいかんじんしき)竜松院(りゅうしょういん)の配下に置かれていた。

高野山真言宗勧学院の古文書調査をしている「和歌山の部落史・高野山文書編纂会」が、高野山における三昧聖の活動を裏付ける史料約180点を発見したと毎日新聞大阪版が伝えたのは2006年8月24日のことである。「谷の者」の姿が徐々に明らかにされてゆくことだろう。

これが三昧聖の墓石である。奥の院には蛇柳と呼ばれた刑場跡も残っている。

現在は蛇柳供養塔がある。享保7年(1722)6月19日、高野山麓島野村(現在の橋本市南馬場)の商屋・戸谷新右衛門は高野山の年貢の取り立てが不条理なことにたまりかね、寺社奉行に対して直訴したため、石子詰の刑(要するに生き埋めである)が執行された。江戸時代、高野山領では享保10年(1725)、享保20年(1735)、明和6年(1769)、安永5年(1776)など一揆が次々に起こった。高野山は大荘園領主でもあったのである。この戸谷新右衛門も生き埋めされるに際して弘法大師空海を思ったことは間違いあるまい。
阿弥号の刻まれた墓石があった。禿法師と呼ばれるハンセン病者の墓石である。文化7年の高野山古地図には阿弥陀堂に隣接してライ病庵があったと記されている。堂といっても、慎ましく小さな堂であったろう。現在の阿弥陀堂をみれば想像がつく。

根本大塔の落慶法要が開かれようとしていた昭和12年(1937)のことであった。3月26日付大阪朝日新聞は「大塔落慶法要を目ざし 大阪からレプラ群 大慌てゞ防止策に苦心」という記事を掲載している。「大阪府住吉管内に屯している浮浪患者十九世帯約六十名が大挙押しかけ物乞ひする車などを用意し準備中であると大阪府からの報に県衛生課はスワ大変と二十五日県下各署に管内への立ち入りを取り締まる一方、県内在住らい患者約百二十名(自宅療養)についても十分監視し“観光和歌山”を汚さないようにと通牒」したというのである。近代国家となっても尚、日本という国は弘法大師空海の「有り難さ」を理解できなかったのだろう。「観光和歌山」などよりも、大切にしなければならないのは空海の「知」であり、信仰の対象とされる空海なのである。

女人堂である。この下に不動坂がある。

この不動坂は高野山の参道であった。ケーブルカーが開通する以前は、ここから高野山に入ったわけだが、女性が入れるのは、この女人堂まで。この不動坂沿いの山中にも禿法師の居住地があったという。高野山の女人禁制が解かれたのは明治5年(1872)3月27日である。