総選挙の争点は「憲法」に大賛成!

次の総選挙の争点は「憲法」であると言った自民党総裁安倍晋三に私は賛成する。一度は、そういう選挙をしない限り、日本は政界再編を安易に繰り返すばかりだと思う。憲法は日本という国家の根幹を規定する基本法であり、あらゆる法律の上位に立つ最高法規である。近代国民国家の常識からすれば、国家が民衆との間に結んだ国家権力の範囲と個人の権利を調整する契約である。ちなみに日本国憲法と並んで重要な法律は皇室典範である。こう書くとリベラル、左派系から猛反発をくらいそうだが、現憲法の一条から八条までが象徴天皇にかかわる規定であることを考えれば、天皇を規定する皇室典範日本国憲法の次に重要な法律なのである。大日本帝国憲法よりも皇室典範は上位にあった法律であることを想起せよ、である。先日、日本維新の会にシンパシーを持つ東京維新の会大日本帝国憲法復活を唱えていたが、大日本帝国憲法を復活させるとなると、皇室典範が日本という国家の最高法規となる。「憲法」が総選挙の争点になれば、こうしたこともつまびらかになることだろう。そう改めて「この国のかたち」を考える良い機会になるはずだし、政党にとっても「憲法」改正草案が言ってみれば綱領になるだろう。マニフェスト選挙で政権を獲得した民主党が自ら掲げたマニフェストを守れなかったのは、民主党マニフェストが綱領から演繹できなかったからである。民主党は綱領を持たない、本来であれば政党とは言い難い選挙のための野合集団であったのである。一方、綱領も持ち、「憲法」の改正草案も持つ自民党だが、本来であれば政治イデオロギー的に相容れないようなタカ派からハト派までが共存しているのは、「憲法」を選挙の争点にして来なかったからである。「憲法」を軸にした政界再編こそ、政治をわかりやすくする第一歩のはずである。
もちろん、「憲法」を争点にすることは護憲であっても良かろう。ただし、私たちは日本共産党に「護憲」を名乗らせてはならないはずだ。日本共産党のタームで言えば、日本共産党が与党として加わる民主連合政府段階では確かに「護憲」なのであろうが、私たちが知るべきは日本共産党が単独で政権を担った場合、どのような「憲法」を掲げるかである。その理想を提示しない限り、この前衛党はスターリニズムの亡霊から自由になることなど絶対にできまい。
さすがに次の総選挙の争点は「憲法」だと総裁が語っただけのことはあって、自民党は既に改正草案を公にしている。石原慎太郎閣下が指摘する通り、現在の日本国憲法アメリカから押し付けられたものであるし、憲法が民衆との間の契約であるにもかかわらず、国民投票の洗礼を受けていないなど、その出自が汚れていることは私も認める。しかし、自民党の改正草案の日本語が日本国憲法の日本語より美しいとは私には思えなかった。当然、石原閣下も新党を結成するのであれば、美しい日本語による徴兵の義務を明記した草案を発表してもらいたいものである。日本維新の会にしてもそうだ。首相公選制を唱えているということは、当然、憲法を改正せざるを得まい。その理想とする憲法草案を掲げることが、橋下徹の政治家としての実像を正確に伝えることになるはずだ。
自民党が今年4月27日に発表した憲法草案だが、もし私が「右」の立場であったならば、これはアメリカが押し付けた現在の憲法よりも「不敬」に当たるのではないかと首を傾げることになるだろう。というのも、改正草案では第一条が「天皇」、第二条が「皇位の継承」であるのだが、第三条に「国旗及び国家」、第四条に「元号」が入ったうえで第四条の「天皇の権能」ということになるのだが、国旗、国家、元号を「憲法」に明記するにしても、これらを天皇の間に割って入れるとは、いかがなものだろうか。現在の日本の国旗は日章旗だが、日章旗は本来、天皇の歴史とは別の場所でデザインされたものであるし、元号にしても天皇自らが考え出すのではなく、漢文学などの専門家によって命名されることを踏まえれば、「天皇の権能」を定めた第四条の前を占拠すべき条項として相応しいと言えるのだろうか。また、次のような第一条にも問題があると言えるのではないだろうか。

天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基
づく。

天皇が日本国及び日本国民統合の象徴であるという位置づけは、表現は多少違っても現行の日本国憲法と同じなのだが、自民党の改正草案は天皇を日本国の元首であるという記述を新たに加えている。言うまでもなく、現状でも天皇は外国人からすれば日本国の元首にほかならないのだから、こういう文言を加えたのかもしれない。しかし、それこそ日本の歴史を踏まえれば、天皇に「元首」などというヨーロッパ近代に連なる政治用語を被せてしまって良いのだろうか。実は、押し付けられたとはいえ、日本国憲法の作成にかかわったアメリカの連中が相当に優秀なのは、天皇に「象徴」という言葉を与えたことであると私は思っている。わが国の歴史を辿ってみればわかることだが、何故、天皇が「万世一系」を維持できたかといえば、早い段階で「政治」から距離を置いた「文化概念」として機能してきたからであり、そうした事情を最も的確に捉えているのが、実は「象徴」という言葉なのではないだろうか。これを「元首」などという「政治概念」に回収してしまうことは、現在における「不敬」ではないのか。私などそのように考えてしまうのだが、自民党では改正草案を作成する過程で、そうした議論は出なかったのであろうか。
リベラル、左派系からすれば9条や新たに設けられた「9条の2」は認め難いということになるのだろう。自民党の改正草案による9条はこうある。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び
武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。

リベラルや左派の非戦主義を持ち出すまでもなく、私は自民党のこの改正案がパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)の「内容」よりも後退しているのではないかと思う。パリ不戦条約の第一条と第二条を見てみよう。

第一条 締約国は国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、且つその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を抛棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言する
第二条 締約国は相互間に起こることあるべき一切の紛争又は紛議はその性質又は起因の如何を問わず平和的手段に依るのほか、これが処理または解決を求めざることを約す

リアルポリティクスの立場から言っても、自民党の9条案はパリ不戦条約との連続性を考えるのであれば問題なしとは言えまい。パリ不戦条約は今から80年以上も前の1928年(昭和3)に結ばれたが、当時の日本も署名した条約である。日本国憲法の第9条はこのパリ不戦条約を移し変えたものだと言えるかと思うが、パリ不戦条約は決して自衛権を妨げるものではなかった。とすれば「自衛権の発動を妨げるものではない」という表記は必要ないし、逆にこのことを第二項で明記することはアメリカも含めて諸外国からあらぬ疑いの目をかけられる可能性もあるのではないだろうか。
自民党憲法改正草案は右からも、左からも突っ込みどころが満載である。恐らく、民主党など他の政党が憲法改正草案を作成しても突っ込みどころは同じように多いだろう。しかし、2009年の総選挙では、しっかりとマニフェストを読んで政権交代を実現した有権者であれば、各党が憲法草案を発表し(もちろん、現状維持の護憲でも良い)、それを読み比べて一票を投じるという選挙のほうがわかりやすいはずである。
何故、そう思うかといえば衆議院の鹿児島3区の補欠選挙が昨日、行われたからである。自民党の元職と国民新党の新顔が激突する選挙であったが、野田政権が発足して初の国政選挙ということもあって、民主党は総力をあげて国民新党の候補を支援し、自民党も総裁が選挙区入りするなど、やはり総力をあげて戦った。結果は自民党元職が僅差で勝利したわけだが、日本共産党が擁立を断念すれば、逆の結果であった可能性もある。しかし、私がこの選挙にかかわる報道を読んだり、見たりして、すっかりシラケてしまったのは、二人の候補の主張に大差がなかったからだ。二人ともTPPに反対、消費税の増税に賛成、原発再稼動に賛成なのである。東京新聞が10月29日付の社説で書いていたように「政党同士が政権を目指して政策を競う小選挙区制の本来の在り方からは程遠い」選挙だったのである。衆議院が解散したとして、鹿児島3区のような選挙が全国的な規模で行われるのではないかと思うと、私はゾッとせずにはいられない。主要政策で違いを際立たすことができないのであれば、「憲法」を争点にし、対立や違いを明確にすべきである。鹿児島3区のような選挙ばかり続けていると、政治は間違いなく大政翼賛会化することになるはずだ。政党政治に終止符を打たないためにも(政党政治を活性化するためにも)、「憲法」を争点とした選挙は願ったり叶ったりなのである。