庶民の常識で考えれば、記者クラブと国会記者会館は別個のものではないのだろうか。国会記者会館を国会記者会なる記者クラブに加盟する153社のみが独占的かつ排他的に使用する理由はいったいどこにあるというのだろうか。どうやらマスメディアに私たちの生活を支える日常の常識は通じないようである。
国会記者会館の前の「立ち入り禁止」の札は、まさに「報道ムラ」の既得権益に対する立ち入り禁止なのである。「報道ムラ」にとって報道の自由であれ、取材の自由であれ、それは記者クラブ加盟社のみに許された特権にほかならないのだ。とすれば「報道ムラ」が謳歌する報道の自由も、取材の自由も、言論・表現の自由も、そのあらゆる自由は民衆の自由な言論、自由な表現にあらかじめ敵対する。「報道ムラ」の「自由」とは格差社会を生み出した新自由主義の「自由」と同じように差別・選別主義に根を張っているのだ。私は反吐が出る。
私は断言したい。国会記者会館に掲げられた「立ち入り禁止」の札は私たち民衆に向けて書かれたものである。国会記者会に巣食うマスメディアにとって、民衆は人間ではなく読者や視聴者でしかないのである。もっと言やあ金儲けの道具にしか過ぎないということである。その論調において保守であるとか、リベラルであるかはマスメディアにとって、見かけの擬制でしかないのである。マスメディアは保守からリベラルに至るまで既得権益を維持することにおいて、「報道ムラ」という運命共同体なのである。もしかすると「原子力ムラ」とか言われているムラよりもタチが悪いのかもしれない。
7月20日のエントリでも紹介したが、非営利のインターネットメディアである記OurPlanetTVは国会記者会に対して、7月29日に開催が予定されている反原発抗議活動「国会大包囲」の取材に際して国会者会館の屋上使用を求める仮処分の申し立てを行っていたが、7月26日、東京地方裁判所は申し立て却下という実に反動的な判断を下したという。OurPlanetTVのホームページによれば「地裁の判断は、今回のように屋上に入って取材するという行為は法的に守られるべき権利(被保全権利)とはいえないというもの」(http://www.ourplanet-tv.org/)だったそうだ。しかも、「国会記者会と衆議院の間で、どのような契約が結ばれ、国会記者会が公的な施設である国会記者会館を『自由裁量』で使用する権限を委託されているのかについては、一切の証拠文書も提出されなかった」そうだ。OurPlanetTVは即時抗告するという。地裁によって仮処分の申し立ては却下されてしまったが、インターネットを母胎に生まれたソーシャルメディアによってこれまでは民衆に隠蔽されてきたマスメディアの等身大の舞台裏が次々に暴かれて馬脚をあらわすのは良いことである。言っておくが私はOurPlanetTVを別に評価しているわけではない。ただ「報道ムラ」のヤリクチに腹を立てているのだ。
もし国会記者会館が国会記者会という名の「報道ムラ」に所属する153社の出資によって建築されたビルであれば、それでなくともマスメディアの商売を侵食しはじめたネットメディアに使わせないという判断があっても仕方ないだろう。日本は資本主義の国だから致し方あるまい。だが、国会記者会館は衆議院の建てたビルである。朝日よ、日経よ、読売よ、毎日よ、それでいて読者から購読料を取る新聞とは、国家と民衆にともに寄生できる実においしい商売なのだな。
取材の対象である権力そのものにビルの、私に言わせれば取材対象となる権力から「便宜供与」を受けておいて、取材活動を通じて権力の監視役など本質的な部分でつとまるはずもあるまい。この関係は原子力安全・保安院と電力会社の関係にどこか似ていないだろうか。新聞の政治面が政策よりも政局に熱中しがちなのも、こうした「報道ムラ」のあり方を反映しているのだ。ジャーナリズムは記者クラブのドグマによって番犬化するのである。
マスメディアにおいて成立するのは所詮、番犬ジャーナリズムにしか過ぎないのである。残念なことだが、これが日本のソーシャルメディアによって可視化されはじめた現状なのだ。それは虚妄でしかなかった戦後民主主義の岩盤部分でもある。戦後民主主義を虚妄に終らせた核心部分というべきか。新聞に戦前・戦中の反省も、自己批判もなかったということだ。そもそも時の政治に働きかけ、権力と一致団結してGHQから記者クラブを守ったという、薄汚れた歴史すらしらない新聞記者もいるくらいである。そう、GHQは報道機関の民主化をはかるべく記者クラブを解体しようとしたのである(拙著『新大陸VS旧大陸』『報道と隠蔽』『三角寛「サンカ小説」の誕生』を参照して下さい)。
国会記者会の「国会記者会館は、衆議院から国会記者会に対し、国会関係取材のための新聞、通信、報道等の事務室として使用することを認められられているものであり、公開する場ではない」という言い分は番犬ジャーナリズムに相応しい台詞である。言うまでもなく、番犬ジャーナリズムは国家と民衆が対立したとき、国家から提供を受けたビルのなかに鎮座しているのだ。まかり間違っても、民衆の真っ只中から報道することはないのである。消費増税に際して新聞に軽減税率が適用されることになったとしたら、これまた国会記者会館と同様に権力から番犬に与えられた「ご褒美」だと私たちは理解するべきなのである。もうマスメディアに騙されるのはご免だ!
確かに新聞社やテレビ局などには、ジャーナリズムを支えるのは会社や組織ではなく、「個」だと主張する記者も僅かながらであっても存在することは私も認めよう。認めたうえで、そうした一人一人の「個」に問いたいものだ。今回の件について「個」として会社なり、組織にに抗議したのかと。その程度の抗議や抵抗もすることもなく、安易に「個」が重要だとか、大切だとか言うべきではあるまい。そんなもの、会社や組織に許される範囲内でしか生きられない「個」にしか過ぎまい。君たちもまた「報道ムラ」の「立ち入り禁止」を共有しているのだ。もし本物の「個」であれば、「立ち入り禁止」の札を内部から破壊すべく動き出すのが筋というものであろう。「個」もまた戦前・戦中・戦後と一貫して傍観者であったのではなかったか。「個」は局面、局面でオナニーに耽ることはあっても、ホンバンには至らない。射精を終えると傍観者の位置に舞い戻る。記者は記者クラブのドグマによって堕落するのだ。そこから一歩踏み出してしまうと、結局「報道ムラ」から追放されてしまうからである。御身大切を優先させるだけなのである。昔からそうだし、これからもそうなのだろう。記者だと胸を張ったところで、日本企業のサラリーマンの「典型」として定年を迎え、「報道ムラ」のこれまた既得権益とでも言おうか、大学に天下って教鞭をとり、偉そうにジャーナリズム論を騙って人生を閉じるのである。