ザ・ピーナッツの伊藤エミが亡くなった

その花のようにいつも愛らしかった。艶歌や怨歌に漂う殺気だった日本的情念に絡めとられることがなかった。そこに渡辺プロダクションというタレント帝国を一代にして築き上げた渡辺晋のジャズメンとしての「意地」であったのかもしれない。デビューが1959年であることを考えれば、日本的情念に絡めとられることがなかつたのは奇跡的なことであったに違いない。双子の女性デュオであるザ・ピーナッツは「日本的共同性」を根拠としなかったのである。ザ・ピーナッツは若者たちの憧憬を「世界」に開いていったのである。若者たちに「世界」の豊かさを歌をもって見せつけたのである。日本のポップミュージックの歴史はザ・ピーナッツによって第一歩が刻まれたのだとさえ言って良いかもしれない。ザ・ピーナツツの命名日本テレビのプロデューサー井原高忠であったが、伊藤エミ伊藤ユミと名づけたのは渡辺晋であった。
デビュー曲の『可愛い花』の元歌はフランスの『Petite Fleur』。直訳すれば「小さな花」であり、ザ・ピーナッツそのものである。この『可愛い花』にはデビュー版と1967版があり、曲調が大きく違っている。ザ・ピーナッツの育ての親とも言うべき宮川泰のアレンジャーとしての天才ぶりがよく理解できる。『可愛い花』の発売は4月、6月にはザ・ピーナッツキューバに着地する。『キサス・キサス・キサス』はキューバのオスバルド・ファレスの楽曲である。キューバではバチスタ政権が崩壊し、2月16日にカストロが首相に就任する。

もし我々が空想家のようだと言われるならば、救いがたい理想主義者だと言われるならば、できもしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう。そのとおりだ、と。

カストロとともにキューバ革命を牽引したチェ・ゲバラの言葉である。『キサス・キサス・キサス』はナット・キング・コールも歌っているが、私からすればザ・ピーナッツの印象しかない。私が遅れてきたザ・ピーナッツファンであるが故のことであるのかもしれないが、『可愛い花』もこの年の9月にリリースされた『情熱の花』にしてもザ・ピーナッツをもって嚆矢とする。『情熱の花』はベートーヴェンの「エリーゼのために」のメロディをアレンジした曲だが、カテリーナ・ヴァレンテのレコードとして発売される。ヴァレンテは『情熱の花』を何ヶ国語かで吹き込み、何と日本語でも吹き込んでいる。しかし、そこまでしても歴史はザ・ピーナッツの『情熱の花』を残した。実はザ・ピーナツツと同時代を生きた人々からして『情熱の花』と言えばザ・ピーナッツなのである。1959年6月から伝説的な歌番組である「ザ・ヒット・パレード」がフジテレビで放送開始となるが、ザ・ピーナツツはこの番組で『キサス・キサス・キサス』を歌い、『情熱の花』を歌ったのだ。「ザ・ヒット・パレード」から「シャボン玉ホリデー」へ、洗練された音楽バラエティとしてテレビ史に語り継がれるであろう、その番組の中心にザ・ピーナッツはいた。テレビという新しいメディアがザ・ピーナッツを支えたのだ。ザ・ピーナッツが若者たちをテレビにひきつけたのである。メディアの革命は必ず新しい才能を開花させるということである。
1960年2月にリリースされた『乙女の祈り』は1855年にテクラ・バダジェフスカが18歳で作曲した同名のクラシック音楽のカバーである。現在、『乙女の祈り』はモノラル録音しか残っていないと言われているが、この年の6月15日、共産主義者同盟(ブント)によって率いられていた全学連主流派が「安保反対」を叫び、国会に突入するが、警官隊と衝突し、このとき東京大学の女子学生であった樺美智子が死亡してしまうのである。33万人が国会を包囲するなかで6月19日午前零時、日米安保は自動承認される。乙女の祈りは通じなかったのである。
私がザ・ピーナッツの魅力に取り付かれたのは新宿ゴールデン街のバーに通っていた頃のことである。今から四半世紀近くも前の話だが、私の通うバーでは、いつもザ・ピーナツツの曲がかかっていた。ママは『週刊現代』の元記者であり、私はこの店を通じて今は亡き朝倉喬司との交流も本格化する。
私は今朝、新聞を通じてザ・ピーナッツ伊藤エミが6月15日に亡くなっていたことを知った。半世紀を経て樺美智子と命日を共有することになった。