首相官邸前に現れた元首相を私が支持する理由

毎週金曜日の午後6時からはじまる首相官邸前抗議行動に「元首相」の鳩山由紀夫がやってきた。このことの持つ意味はとても大きい。日共などの左翼党派の場合、この手のデモや集会に積極的なのはデモや集会の掲げるスローガンを実現することが目的というよりも、そこに参加した民衆を自らの政治党派に引きずり込むことが目的である。日共であれば赤旗の購読をすすめることから始めて、党勢拡大、党員拡大にむすびつける。ひたすら民衆を引き摺り回すことが、この党の昔からの習性なのである。彼らの大飯原発再稼動反対は口実にしか過ぎない。私はそういうヤリクチをスターリニズムと呼び、心の底から嫌悪している。その点、鳩山は側近議員の要望もあったのだろうが、そうだとしても、首相官邸前に集る民衆に引き摺られるようにして、自らもやってきた。私は昨日の鳩山由紀夫を評価する。
例えば菅直人脱原発をスローガンに掲げ、「脱原発基本法」の制定を目指しているという菅直人は未だに首相官邸前に姿を見せないどころか、自らのブログで首相官邸前の抗議活動について何も言及していないが、これは首相経験者であることと無縁なことではあるまい。菅あたりは政治家として市民運動出身であることを売りにしているが、菅が首相を経験して身につけたのは、民衆は自らが引き摺る存在ではあっても、自分は民衆に引き摺られる存在ではないという腐ったプライドぐらいのものであったろう。これに対し鳩山は元首相でありながら民衆に引き摺られることを厭わなかった。
確かに鳩山は福島第一原発の過酷事故後の昨年5月31日にたちあがれ日本平沼赳夫代表を会長に据えて発足した「地下式原子力発電所政策推進議員連盟」の顧問を羽田孜森喜朗安倍晋三という同じく首相経験者とともにつとめている。反原発「原理」主義者からすれば、鳩山は原発推進派というレッテルを貼られても少しもおかしくない人物である。鳩山は私と同じように大飯原発の性急な再稼動に反対するという立場であろう。そんな人物をも無名の民衆が自律的、自発的にはじめた首相官邸前抗議行動は引き摺り込んでしまったのだ。ここに直接民主主義と間接民主主義が邂逅を果たす。マイクを掴んだ鳩山もそのことを自覚していたように思う。鳩山は言った。

私はみなさんの新しい民主主義の流れをとても大事にしなければならないと思っています。

次の総選挙で落選が噂されるから、人気取りで首相官邸前にやってきたんだと鳩山を批判することは簡単だ。しかし、選挙が危ないのは菅直人とて同じことだろう。むしろ、首相官邸前に「新しい民主主義の流れ」を嗅ぎ取って、その場にかけつけた鳩山由紀夫のほうが政治家として菅などよりも遥かに信頼が置けるというものだ。鳩山は元首相という肩書の、いわばベルリンの壁を自ら壊して首相官邸前にやってきたのである。そのうえで鳩山は「引っ込め」という野次が飛び交うなか次のように語ったうえで「元首相」という肩書を利用した挙に出る。首相官邸の中に入って行ったのである。

皆さんの声をもっともっと政治に反映していかなければならないと思っています。私もかつて官邸におりました。官邸と国民のみなさんの声をもっと近づけたいと思ってまいりましたが、国民の皆さんの声が官邸の壁が厚くて厚くて聞こえなくなってしまいました。私も大いに反省しています。この今の政治こそ、官邸と国民、きょうのお集まりの皆さんの声があまりにかけ離れてしまっていると残念でなりません。元総理を経験した、官邸にいた者として、皆さんの声を官邸に伝え、政治の流れを変える役割を果たさなければならない、こう思ってやってまいりました。これから皆さんの声をお伺いして、私1人で官邸の中に入らせてもらいたいと思っています。皆さんの声をぜひ伝えたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いします。。どう考えても、この時点での再稼働は無理です。やめるべきだと私も思っています。その声を野田首相に伝えるため、これから官邸の中に乗り込んで、総理もおられないようでありますので、官房長官に皆さんの思いを伝えてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。皆さん頑張って下さい。

大飯原発の再稼動問題で露呈したのは代議制民主主義という現段階の間接民主主義が機能不全に陥ってしまったということである。民衆と政治とをつなぐパイプが断たれてしまったのである。そんな民衆がソーシャルメディアを介して路上に活路を見いだした。毎週金曜日に首相官邸前に集りだした人々は当初数百名に過ぎなかったが、やがて万単位に膨らんでいった。国会が消費増税を契機にして民主、自民、公明の翼賛体制を成立させてしまったこともあり、これに危機感と不満を持った国会議員も首相官邸前に顔を見せ始める。こうして民衆は首相官邸前に「広場」を創出し得たのである。「広場」とは民主主義が選挙に堕落する以前に古代ギリシア都市国家で繰り広げられていた直接民主主義の「原風景」にほかならない。つまり、「新しい民主主義の流れ」とは直接民主主義の可能性を模索する流れなのだ。しかし、間接民主主義との間にはまだ通路を確立していない。鳩山はその「広場」から官邸へという通路の役割を果たそうとしたのである。民衆のパシリを元首相が引き受けたのだと言っても良いだろう。鳩山は「これからの民主主義」の側に立ったのである。茂木健一郎は次のようにツイートしている。

鳩山由紀夫さん(@hatoyamayukio )が、デモ参加者のいる路上でお話されて、その後官邸内に入り、官房長官に対話の場を設けるように要請したのは、理にかなっている。今、日本の社会に求められているのは、デモ参加者のいる路上と、官邸が行き交うような仕掛けである。

茂木の言う「デモ参加者のいる路上と、官邸が行き交うような仕掛け」とは官邸に象徴される間接民主主義が路上で萌芽した直接民主主義をどのようにして繰り込むかという課題にほかならないと私は考えている。
それにしても新聞やテレビといったマスメディアは「これまでの民主主義」の既得権益に胡坐をかいてきたこともあって、「これからの民主主義」に対する想像力は実に貧困である。この「静かな文化革命」は東日本大震災以前にやはりソーシャルメディアで呼びかけられた小沢一郎擁護デモに私は源流を見いだしているが、新聞やテレビが首相改定前の抗議行動の報道を始めたのはつい最近のことである。新聞やテレビといったマスメディアに依拠する既成ジャーナリズムにとってデモはデモンストレーションのデモに過ぎないという認識なのだろう。むろん、首相官邸前の抗議行動はデモクラシーのデモである。