いじめについて一言

ネットからマスメディアに至るまで「いじめ」を糾弾する正義の言葉で満ちあふれている。しかし、私はそうした「正義」だけには加担したくない。何故なら、そうした大人たちから発せられる、誰も否定できないような正義が「いじめ」の温床となると私は考えているからだ。「いじめ」を糾弾する正義の言葉こそ「いじめ」を増長し、拡大する。誰も否定できないということは、その正義が安易なものであるという意味しか持ち合わせていないのである。何よりも、そうした正義の旗を掲げて「いじめ」を根絶するという、権力を根絶することと同じくらい実現不可能な理想を語ったところで、現実の「いじめ」は今現在も進行中なのである。正義の言葉とは、得てして人々から現実を見えなくさせてしまう空虚を孕んでいるものなのである。大人たちにできることは子どもが死を決意するほど耐え難い「いじめ」を受けていたならば、そこから堂々と逃げられるような非常口を子供たちに用意することぐらいであろう。この場合、端から学校に期待すべきではあるまい。学校は教育を担う機能の一つではあっても、それ以上のものではないのである。むしろ、学校は価値を一元化することで逆に「いじめ」をエスカレートさせかねない制度なのである。