言葉を言い換えることによって、そのことの示唆する事態を回避し、本質的な意味を隠蔽し、逆に別の肯定的な含意を与えるという文化が私たちの社会には伝統的に根付いている。良くも、悪くもである。
最近では桜宮高校の生徒が自殺した件で、教師による「暴行」を「体罰」と言い換えることによって、単なる「暴行」に教育的な意味を持たせてしまう。「体罰」をいくら批判したところで、「体罰」という言葉を使い続ける限り、「体罰」を受ける側に「罪」があることを是認してしまうことに私たちはあまりに鈍感である。本来、教育とは縁もゆかりもない「暴行」事件が「教育」として堂々と論じられることに誰も異を挟まない。「体罰」という言葉を放置しておくこと自体が教育の倒錯であることに誰も気がつかない。「いじめ」「しつけ」「指導」など教育に関わる分野では、この手の言い換えがやたらと多いように思われる。そう言い換えることで日本の教育はいとも簡単に「暴力」や「暴行」を認めてしまっているのだ。それだけ教育が歪んでいるとここは理解すべきだろう。
教育と並び軍事の分野でも言い換えが目立つように思う。一方では「核兵器」と言い、一方では「原子力発電」と言っているが、英語ではともにnuclearである。「核兵器」と呼ぶのであれば「核発電」と言えば良いにもかかわらず、「原子力発電」と言い換えることで、「核兵器」との同質性を断ち切り、「原子力発電」の戦争との深い繋がりを隠蔽してしまっているのだ。大東亜戦争に際して「退却」を「転進」と言い換えた話も有名である。そうすることで現実を見えなくさせてしまう。現実を見えなくさせてしまうことで軍部は責任逃れに成功する。
こうした言い換えは「忌詞」の文化と言って良いのかもしれない。高野山などの宿坊に泊まるとわかることだが、そこでは禁酒が原則だから、「酒」を「般若湯」と言い換えて飲酒を可能にしてしまうように生徒に対する「暴行」を「体罰」と言い換えて教育現場に「体罰」を横行させてしまうのである。
もっとも「酒」を「般若湯」と言い換えたのは、民衆の知恵であり、「忌詞」の存在が私たちの生活文化における表現を豊穣なものにもしよう。居酒屋で「スルメ」を「アタリメ」と言い換えるのは、「スルメ」はお金を摺るに通じて縁起が悪いから、賭けに当たるべく「アタリメ」なのである。一方、「体罰」や「原子力発電」といった言い換えは、むしろ権力者の悪知恵というべきだろう。権力者にとって本質を「禁忌」として隠蔽することが政治にほかなるまい。こちらは私たちの生活文化を豊かにするどころか、私たちの存在そのものを脅かす。言い換えることで実態の汚れをものの見事に清めてしまうのである。
いずれにしても、「忌詞」が回避されるのは「禁忌」にかかわるからである。柳田国男を踏まえて言うのであれば、「禁忌」には二つの意味がある。ひとつは「禁忌」とは自分のケガレが聖なるものを汚すという恐れの心情の結実である。教師が自分の暴力によって聖なる子どもたちを汚すことを実は恐れているからこそ「体罰」と言い換えるのは、このためである。もう一つは自分自身が汚されることに対する恐れの心情である。事故に際して放射性物質をバラ撒き、大量死を招きかねないような事態を内心では恐れていたからこそ「原子力発電」と言い換えなければならなかったし、更に絶対安全神話で包み込む必要まであったのである。
新聞やテレビといったマスジャーナリズムに問われているのは「忌詞」の言い換えを暴露し、「禁忌」を白日に曝すことにほかなるまい。「禁忌」とは見たくない現実、触れたくない本質である。マスジャーナリズムが担う報道の役割とは「禁忌」を白日に曝すことにより、「禁忌」の磁場を無化し、議論の場(民主主義の場)に引き摺りだすことである。しかし、実際はそうはなっていない。そのような期待は裏切られ続けてきた。むしろ、マスジャーナリズムは権力サイドの言い換えに積極的に加担してしまうのだ。加えて、その加担に無自覚である。敗戦によってすら微動だにしなかったのである。
戦前の新聞が大本営が「転進」と発表すれば、それを検証することなく、鵜呑みにして、そのまま報じていたという事態は福島第一原発の過酷事故の報道に際しても本質的に何ら変わることがないままに今日に至り、大阪の桜宮高校における教師の「暴行」が生徒を自殺に追いつめた事件でも、論調からすれば最左派の東京新聞から中道の朝日新聞を経て最右派の産経新聞に至るまで「体罰」という言葉を氾濫させてしまっている。「忌詞」の言い換えに同調するということは、報道が民衆の側に立ちきっていないからである。中国のマスメディアが中国共産党の宣伝機関に過ぎないことは周知の事実であるが、日本のマスメディアは中国のマスメディアなどよりも、もっともっと巧妙に国家のイデオロギー装置としての役割を果たし続けているのだ。
玉石混交のインターネットに可能性があるとするならば、あまたな石の存在を隠れ蓑にしながら、そのような「禁忌」を果敢に侵犯していくブログジャーナリズムは、そうした可能性の一つであろう。「禁忌」を果敢に侵犯してやまないゲリラ戦を展開できないような場所に「自由な言論」は育ちようもないのである。