橘孝三郎とゲンパツについて

昭和7年(1932)5月15日、犬養毅首相が武装した海軍の青年将校によって暗殺される。血盟団事件に次ぐ昭和維新の第二弾として決行された五・一五事件である。民間からも五・一五事件に加わっている。愛郷塾を主宰する農本主義「右翼」の橘孝三郎がそうだ。近代化から疎外され瀕死の状態に放置されていた農村を救済するには国家を革新するしかないと考えていた橘は7名からなる農民決死隊を結成し、変電所六ヶ所を襲撃する。各変電所に手榴弾一個を投擲し、「帝都暗黒化」を図るが、設備の一部を破壊するにとどまる。何故、橘は変電所を襲撃し、「帝都暗黒化」を企図したのだろうか。
橘孝三郎からすれば農村を疲弊させているのが近代化であるとすれば、その象徴が電気にほかならなかった。その電気から農村は見捨てられ、農民は餓えていた。稲の文化を否認するような唯物万能の近代化は農本主義「右翼」の立場からすれば許しがたい「不敬」であったにちがいない。天皇は「稲の神」なのである。宮中祭祀のひとつである新嘗祭天皇が毎年11月23日にその年に収穫された新米を天神地祇にささげ、また自らも食す儀式である。農を国の大本と捉えることは即ち、天皇絶対主義にほかならなかった。橘が農民決死隊に変電所を襲撃させたのは、農村をおろそかにする電気文明に警鐘を鳴らす意味があったはずである。農村をおろそかにするということは稲穂をおろそかにすることであり、「稲の神」たる天皇をおろそかにすることであった。
日本の一切の土台は農村にあり、「地方協同体の共同自治制体」が「一君万民」国家の基礎になるというのが、橘の思想であると言って良いだろう。人は大地を離れて永遠足り得ず、「国土を離れて国民なく、国民を離れて国民社会なく、国民社会を離れて人生なし」なのである。そう考える橘からすれば大自然を忘れた東京はマネーの力によって支配される資本主義の総本山たるロンドンの出店でしかなかった。

―只今の世の中は何でも東京の世の中です。その東京は私の目にはロンドンの出店のようにしか不幸にして映りません。兎に角東京のあの異常な膨大につれて、それだけ程度、農村の方はたたきつぶされて行くという事実はどうあっても否定出来ん事実です。そして只今位農民が無視され、農民の値打が忘れられたためしもありますまい。『日本愛国革新本義』

松本健一の『思想としての右翼』の言葉を借りれば「農本主義は土からひきはなされ、工場の労働者とされ、あるいは兵士とされ、地代を払うために娘を女郎屋や紡績工場に売りにださねばならなくなった、農民の思想化であった」のである。
日本を占領することになったアメリカは、橘に代表されるような農本主義を恐れたに違いない。大東亜戦争を支えたウルトラ・ナショナリズムイデオロギーのひとつが農本主義であったからだ。この農本主義を一掃することが日本の民主化にとって欠かせないと判断したのだろう。かくしてGHQは農民を疲弊させていた寄生地主制を解体する農地解放に着手する。小作農がなくなり、地代を払わずに農業に専念できる環境が人工的につくりだされたのである。農地解放は農民を飢えから解放するという農本主義の理想を実現してしまうことでウルトラナショナリズムの一翼を担う農本主義の息の根を止め、同時にそれは戦後保守政治(自由民主党による長期独裁政権)を支えることになる、言わば「岩盤」を築き上げたのである。この保守政治の最大の特徴は「昭和維新」という政治革命を誘発しないという意味でも、反スターリニズムという意味でも「保守」であるということだった。
しかし、都市と農村の格差は高度経済成長を通じて再び露になる。東京は戦前にも増して豊かさを実現するが、農村部は高度経済成長から取り残され、過疎化の一途を辿ることになる。この新たに生まれた格差の解消に重要な役割を果たしたのが、原子力発電にほかならなかった。大都市が無尽蔵に電気を消費できる体制を高度経済成長から取り残された農村部が電源三法による原子力発電所誘致で電気の生産を引き受けることによって築きあげ、それまで高度経済成長から取り残されていた農村部もその果実を手にすることになったのである。昨年の「3.11」までは。つまり、電気は近代においても、ポスト近代においても、その原動力となったのであり、最強の発電装置が核エネルギーを平和利用する原子力発電所であったのである。
2011年3月11日に起きた東日本大震災は大地震と大津波による天災にとどまらなかった。それだけでも2万人にも及ぶ死者・行方不明者をだすという途方もない被害を与えたが、福島第一原発が全電源喪失による過酷事故を引き起こしてしまったのである。原発が爆発することで放射性物質が撒き散らされ、15万人にも及ぶ「原発難民」を生んでしまったのである。福島第一原発の過酷事故によって15万人の人々は橘孝三郎にならえば大地から引き離され人生を奪われてしまったのである。
かくして一度は息の根を止められた農本主義だが、そのエッセンスは「3.11」後の日本にとって重要な意味を持ち始めているような気がしてならない。首相官邸前で毎週金曜日に繰り広げられる抗議行動を眼前にして私が思い浮かべたのは実は橘孝三郎であった。橘孝三郎からすれば、「土を亡ぼす一切はまた亡ぶ」のであり、大地を文字通り亡ぼした原子力発電もまた亡ばねばなるまい。即座に原発ゼロを実現することは無理にしても、少なくとも橘の大地主義からすれば原発推進はあり得ない選択肢であるはずだ。更に言うのであれば天皇との関係において誰もが平等であると考える農本主義が掲げた「地方協同体の共同自治制体」という政治のあり方は、単なる実現不可能なロマンチシズムなのではない。間違いなく直接民主制の可能性に向き合っているのではないだろうか。『日本愛国革新本義』には、こうある。

即ち上より下への方向を取って国民の頭上に重圧さるる政治的支配を一掃して、支配に取って代わるに国民をして協同自治せしめねばなりません。国民をして協同自治せしむる如く統治せねばなりません。ですから国全体からながめると国民的統治となり、国民個々からながめると国民的協同自治にならねばならんという事になるわけです。

こうした橘孝三郎の可能性を単純に「右翼」というレッテル貼りで排除してはならないのではないだろうか。橘ばかりでなく、権藤成卿なども含めて農本主義をポスト原発、リスク近代の文脈で読み直す必要があるにちがいない。原子力発電所の爆発によって撒き散らされた放射性物質によって大地からきりはなされ棄民となることを強制された民衆の思想化が問われているということである。マルクスは『共産党宣言』で「ヨーロッパには亡霊がうろついている。それは、共産主義の亡霊だ」と述べているが、私は次のように言い換えよう。

フクシマには亡霊がうろついている。それは、農本主義の亡霊だ。