朝治武氏の講演「関東水平運動と平野小剱 −全国水平社創立90周年に寄せて−」を聞いて

その一枚の写真に思わず引き込まれた。配布された資料のなかにあった。長髪、太い眉、髭、ソフト帽を被り、三つ揃えのスーツにコートを羽織り、右手に煙草を持っている。ネクタイを締めてはいない。スカーフだろうか。単なる男前ではない。土方歳三大杉栄ポートレートがそうであるように誇り高き男の鋼鉄の意志がひしひしと伝わって来る男前なのである、「叛逆の黒髪」を貫いたこの男は。
東日本部落解放研究所第 27 回総会・記念講演は朝治武氏による「関東水平運動と平野小剣―水平社創立 90 周年に寄せて」であった。従来、平野に対する評価は水平運動を象徴する人物の一人でありながら、アナキストから国家主義者に転向した「裏切り者」として扱われることが多かった。国粋民衆党の関係団体である内外更始倶楽部の幹部として大陸浪人となり、満洲事変の発端となる柳条湖事件に関与したと言われ、蓑田胸喜が煽動した天皇機関説排撃運動でも急先鋒に立ったからだ。しかし、だからといって平野が部落解放の志を捨て去ったと安易に結論づけて良いのか。部落解放の志において、アナボルを分別することに、あるいは左右を分別することにいかほどの意味がありや。「右」の立場からアジア解放や世界革命を夢見ることも充分にあり得たはずである。いや、結論は急ぐまい、偏向してはなるまい。しかし、そこでブレーキを踏んだとしても、こうは言えるだろう。たとえ平野が「戦後」という価値観からすれば唾棄すべき運動にかかわったことをもって、それまでの平野の水平社運動における功績をいとも簡単に否定してしまって良いのか。水平運動において平野を正当に位置づける必要があるはずだ。異議なし!である。例えば「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」と謳った水平社宣言。執筆者は奈良県被差別部落の寺院である浄土真宗本願寺派西光寺に生まれた西光万吉であると言われて来た。確かに、ゴーリキーの『どん底』における「人間は元来勦(いた)はるべきものじゃなく、尊敬すべきものだ」という一文を踏まえた「此際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である」というくだりに色濃く漂っているのは西光の宗教者らしい人間主義であろう。しかし、次のようなリアルで強烈な部落民意識は平野小剣に固有のものではなかったろうか。
「陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった」
いずれにせよ、水平社宣言は西光万吉が起草し、これを平野小剣が西光と話し合いながら、添削し、完成させたものなのである。引用した部分は平野にしか書けなかった表現ではなかったのか。平野は父親が食肉販売業に従事していたこともあって、幼少期に屠畜業を経験している。朝治武氏は平野小剣に対する否定的評価に対する異議申し立てをゆっくりと語り出す。朝治氏は平野の生涯を五期にわける。出生から高等小学校に入学し、兄を頼って上京するまでの福島を舞台にした 1891 年から 1904 年までの第一期、上京し秀英舎印刷工業で文選工として働きながら労働運動に邁進する 1904 年から 1921 年までの第二期、水平社の創立に関わり、「闘将」として全国水平社を先導することになる 1921 年から 1925 年までの第三期は活躍の舞台が九州・四国を除いた全国に広がる。1925 年から 1927 年までの第四期は関東を基盤とした独自の水平運動を繰り広げる。そして、国家主義運動に身を挺した 1928 年から 1940 年までの第五期ということになる。平野小剣は 1891 年に福島県信夫郡浜辺村の混住が進行する小さな被差別部落に生まれる。七人兄弟の五男であった。朝治氏は幼少期の部落問題体験が平野のその後の水平運動の前提になっていると捉える。水平社宣言は部落に生まれ育った自分たちこそは最も人間らしい人間であるという人間主義の宣言であると言えるが、平野にあって人間主義とは自らは差別されるはずもない誇り高き部落民であるという、いわば部落民意識ともいうべきものを前提にしてこそ成立するというわけである。
平野は1904年、14歳で兄を頼って上京する。秀英舎印刷工場で文選工の仕事に就く。「呪われの村」に生まれたという自らのイメージから平野は出発する。1915 年に亡くなった母の遺言は「呪はれたる者は呪ひ返せ」だったというが、平野はまさに母の遺言を実践したのである。東京に出た平野は文選工の渡り鳥になったという。部落差別が平野を「太陽のない街」の渡り鳥にしたと言って良いだろう。十八歳の夏に同郷の同僚と口論した際に「犬殺し野郎」「新平民メ」と罵倒される。勤務先で幾度となく差別を受け、交際していた女性とも二度にわたって別れなければならなかった平野は酒に溺れる自暴自棄の生活を送った。そんな時に母親が死んだのだ。母親の遺言が身に沁みた。それが社会運動に取り組む契機となった。普通選挙の実現を目指し、立憲労働党の創立に参加したのは 1916年 6月。1919 年には活版印刷工組合の信友会にも加わった。やがて幹部となり、『信友』を編集する。平野は書いた。
「労働者の解放は労働者自ら為さざるべからず」
平野は資本家の温情による待遇改善を断固として拒否した。温情主義を葬れ。平野は労働者が団結するに当たって労働者の自覚を求めた。労働者であること、部落民であることにおいて平野は当事者であることにこだわる。朝治氏言うところの「部落民意識」である。その自覚、その意識において平野は徹底的にリアリストであったと朝治氏の報告を聞いて思った次第である。平野の部落解放運動には、それまでの労働運動の蓄積が反映されていた。労働運動から部落解放運動に重心を移す。1921 年 2 月、帝国公道会による第 2 回同情融和大会が東京・築地本願寺で開かれるが、平野はここで民族自決団の檄を撒く。この檄には水平社宣言に見られる「部落民意識」が打ち出されている。「我等民族の祖先は最も大なる自由と平等の渇仰者であって、又実行者であ」り、「最高の人間である」と。平野は第一次世界大戦後の民族自決の時代にあって部落民を民族になぞらえているのである。平野小剣はどこまでも誇り高き男であった。『特殊民の解放』(1922 年 2月)では次のように解放の情熱を持って書いている。いや叫ぶ。
「俺は穢多だ!自ら斯う叫ぶ事を誇りとする。俺は新平民だの、特殊民だの、そんな生温い名称で呼ばれる事は厭だ。俺は穢多だ! 穢多で沢山だ。穢多が自慢だ。穢多が誇りだ。今に見ろ、穢多といふ名称が全社会から尊敬される時が来る」
既に労働運動や部落解放運動の最前線で活躍していた平野は関西での全国水平社創立の動きを知り、西光万吉らと知り合い、その中心メンバーとなり、1922 年 2 月 28 日に綱領・宣言・決議・規則の作成に携る。平野は朝治氏によれば「全国水平社を先導した闘将」であったという。差別表現に対する糾弾闘争に取り組み、部落民の生活擁護と部落改善費獲得に邁進した。1923年 3月には関東水平社を創立し、1924 年 11 月には福島県水平社を立ち上げる。平野は関東を基盤にして独自の水平運動を繰り広げる。闘争と組織化の両面において平野は闘将であったというべきだろう。また平野は衡平社との連携を図り、排日移民法反対運動にも取り組んでいた。そんな平野であったが、1924 年 12 月、警視庁のスパイ遠島哲男の『同和通信』に深く関与していたことを捉えて、全国水平社から除名処分を受けてしまう。また 1925 年 1 月の、世良田村事件において関東水平社の村岡静五郎、宮本熊吉、栗原積と対立し、関東水平社からも除名される。その背景には部落解放運動が「アナ・ボル論争」に巻き込まれていったことがあるのかもしれない。平野は全国水平社無産者同盟に対抗して、1925年10月にアナ系の全国水平社青年連盟を創立する。差別糾弾にこだわる闘争を運動の退化であると捉える階級的視点に平野の部落民意識は馴染めなかった。平野はアナ派というよりも、純粋なる水平運動を求めたのかもしれない。全国水平社青年連盟の主張はあくまでも部落民意識に根拠を置いている。
「吾々は確固不抜なるエタ意識の上に基礎をおき、吾等同人の徹底的解放の戦線に起つものである」
平野はアナ・ボル論争に失望する。平野からすれば思想よりも、糾弾闘争をはじめとした部落解放の実践こそが、大切であったのだろう。そういう文脈で平野の「一君万民」の国家主義への接近を理解することもできなくはあるまい。平野小剣は 1928 年 8 月にアジア主義と日本主義を基調とした国家主義団体である内外更始倶楽部を創立し、自宅に事務所を置く。その綱領の第二項にはこうある。
「被圧迫者ノ社会的、政治的、経済的ノ解放」
平野は国家主義運動の一環として水平運動に取り組んだのである。平野からすれば部落解放の運動と志において一ミリも転向していないのである。もちろん、平野が満洲事変に関与したり、蓑田胸喜らとともに天皇機関説撲滅にも取り組む。
朝治氏は言う。平野小剣に対して奇妙な親近感があるのと同時に違和感・嫌悪感が同居しているのだと。しかし、たとえ違和感があっても、平野小剣が強烈な個性を発散しながら、「叛逆の黒髪」として部落民を貫いたことは間違いがあるまい。だから、平野を鏡として自らの生き方を自省することができるのだと。朝治氏にとって平野小剣は今や親密なる友人のひとりであるという。
註・本稿は『東日本部落解放研究所ニュース』第38号に発表したものです。