私は昨日、ツイッターで次のように書いた。
私はブログで折に触れ、橋下徹について書いてきた。橋下を通じて、リベラルや進歩派、左派がいかに思考停止に陥って来たのかを糾弾して来たのである。橋下を単純に「人権を踏みにじる右派政治家」のようなイメージで捉える紋切り型の言論には辟易するのである。橋下を理解できない限り、民衆にとって何故に右派の政治家が魅力的に映るのか理解できないだろうし、ここを理解しようとしないからリベラル、進歩派、左派系の知識人は民衆から孤立してしまうのだと私は考えている。そうしたこともあって、私は佐野のように橋下に嫌悪感を感じないのである。だからといって、私は橋下徹を政治家として全面的に支持しているわけではない。橋下が「リバティおおさか」(大阪人権博物館)に対して「運営補助金」を打ち切ったことに対して私は反対であり、「リバティおおさか」の存続を求める呼びかけに署名もした。松井大阪府知事、橋下大阪市長に対する「要望」の一部を抜粋しておこう。
1985(昭和 60)年に「人権歴史資料館」として開設以来、リバティおおさかは、日本で初めての差別・人権問題に関する総合博物館として、人権教育・人権啓発の推進のために重要な役割を果たしてきました。未だに、被差別者はもとより社会的弱者といわれる人たちにも蔑みのまなざしで見たり、揶揄したりする言動があいついで発生・発覚しています。そんな現代社会にあって、差別の解消と人間の尊厳に関わる貴重な資料を有しているリバティおおさかは存続させるべきです。
橋下さんが知事時代、松井さんも府議会議員時代に、リニューアル予算を承認しました。リニューアルしてわずか1年余りで、一方的に「補助金廃止」決定は大いに疑問です。リバティおおさかの設立経過、ならびにこれまで果たしてきた役割をふまえて、「補助金」は継続されるべきものです。
「人権教育・人権啓発の推進のために重要な役割を果たし」、「差別の解消と人間の尊厳に関わる貴重な資料を有しているリバティおおさか」を廃止するつもりの橋下徹は、佐野真一の『ハシシタ』に対して、佐野を正面から批判するのではなく、『ハシシタ』の連載をはじめた『週刊朝日』を批判するのでもなく、『週刊朝日』を刊行する朝日新聞出版の親会社である朝日新聞に対して、橋下は、私が署名した「要望」の文章を借りて言えば「被差別者はもとより社会的弱者といわれる人たちにも蔑みのまなざしで見たり、揶揄したりする言動」であるとして糾弾をはじめたのである。まずツイッターで情報発信し、これをテレビに取り上げさせるという「パブリシティの政治手法」をいつものように実践し、社会的な事件としてみせたのである。事件化することは即ち問題を「政治」の土俵に引き摺り出すことであろう。むろん、「政治」とは「敵」を打倒することにほかならない(だから、「戦争」もまた「政治」である)。「敵」とは朝日新聞である。私は、こうした橋下の手法を批判するつもりはない。橋下徹という政治家「個人」が特定のマスメディアと戦うにはベストな選択であろう。私は橋下をソーシャルメディアの可能性を切り拓いた、最初の政治家として評価している。
橋下が『ハシシタ』について書き込んだ主だったツイートを見てみることにしよう。
そして朝日新聞に一番問いたいのは、朝日新聞は血脈主義、身分制度を前提にするのかどうかということ。これは優生思想、民族浄化思想にもつながる極めて危険な思想だ。僕の権力チェックは良い。それだったら政策論争か、僕が生まれてから今に至るまでを丸裸にすべきだ。 10月17日
橋下は佐野真一の『ハシシタ』を優生思想、民族浄化思想にもつながる血脈主義、身分制度を前提にした、ナチスに匹敵するくらい危険な思想をもって書かれていると読み込んだのである。橋下からすれば「権力チェック」として書かれるのであれば、どんな批判も許容できるが、『ハシシタ』は「記憶にもない実父」の生き様を描かれることで、その一線を越えてしまったといわけである。
僕は実父に育てられた記憶はない。それでもなお、実父の生き様が、僕の人格に影響しているという今回の週刊朝日の連載目的を肯定するなら、それはまさに血脈主義そのものである。僕が母親にどう育てられ、育ち、友人関係がどうだったのか。こちらが僕の人格形成の主因ではないのか。 10月17日
育てられた記憶もない実父、実父の親族の非嫡出子で、僕は2度ほどしか会ったことのない遠戚者の生き様。これから報道されるであろうじいさんなどの生き様。こういうものが全て著者の気に食わない僕の人格に影響して、それを明らかにしなければならないというのは、権力チェックの一線を越えている。 10月17日
橋下は佐野の『ハシシタ』を「報道」であると理解する。こんな「報道」が民主主義社会において許されて良いのか。良いはずがないというのが橋下の立場である。
朝日新聞の思想そのものの問題だ。個人を重視せず、血脈を重視する。政策論はどうでもよく、血脈を暴くことだけを目的とする。こういう報道が必要と言うなら、朝日新聞は堂々と社会にその考えを示すべきだ。 10月17日
橋下は朝日新聞に問う。こうした連載を、たとえ子会社の週刊誌といえども掲載するのは、朝日新聞が佐野と同じようなナチスに匹敵する危険な思想を抱いているのかと、部落差別を肯定しているのかと。
今回の週刊朝日は、「政策論争は全くしない。橋下の人格を暴くために、橋下の血脈を徹底的に暴く」とする。この血脈思想を朝日新聞は肯定するのかどうか、ここを聞きたい。人は先祖によって全てが決まる。先祖の生き様が子孫の存在そのものを規定する。当該個人の努力、生き様など全く無意味。 10月17日
要するに、週刊朝日は僕の人物像を描くとしながら、僕の血脈を否定しようとしている。これは権力チェックの一線を越えている。そして週刊朝日は朝日新聞の100%子会社。朝日新聞は無関係とは言えないし、こんなことを許したら、子会社を作っていくらでもやりたい放題できる。10月18日
確かに民主主義社会といえども、一線を越えた言論は許されまい。しかし、実際、日本ではこの手の言論が堂々と闊歩しはじめている。例えば行動する保守を名乗る「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の在日朝鮮人に対する発言は明らかに一線を越えたものだと私は思っている。在特会は大阪では鶴橋などで下品きわまりないパフォーマンスを繰り広げているが、こうしたことに対して橋下はどのように考えているのか、またどのように行政として対応しているのか、私は知りたい。部落差別同様に在日朝鮮人差別も決して許されてはなるまい。そもそも、これほどまでに「差別」に対する激しい怒りを込めて書き込む橋下徹が「リバティおおさか」への「運営補助金」を廃止してしまうのが、私には理解し難い。「差別の解消」という一点において橋下と「リバティおおさか」は連帯できるのではないか。
ひいては人種差別、民族浄化論そのものにもなる。人種差別やナチス肯定論はアメリカでもヨーロッパでも公言することは禁止されている。人が心の中でどう思うかまでは制約できないが、少なくても公言することは禁止されている。一線を越えた言論は民主国家でも許されない。 10月18日
橋下徹は『週刊朝日』や佐野真一と話し合いに応じるつもりはないと断言する。何故なら、これは橋下にとって政治家として生きるか死ぬか、勝つか負けるかの勝負だからである。だから、橋下は佐野真一を相手にするのではなく、朝日新聞「本体」に怒りをぶつけ、報道機関としてのあり方の是非を問うているのである。まさに、「政治」である。
こんな週刊朝日や佐野氏と話し合いなどできるわけがない。まさに生きるか死ぬか、勝つか負けるかの勝負になる。こんなところで、相手を負かす気力がなければ、うちの家族は社会的に抹殺だ。それくらいのことを週刊朝日や佐野氏がやろうとしていたことを本人たちは全く自覚しない。 10月18日
そして僕が週刊朝日や佐野氏のような者に勝つためにとことんやると、佐野氏は敵対する相手を認めない危険な人格だと来る。相手がこちらを排除しにかかったり、侮辱してくれば、それに打ち勝つしかない。議論し妥協する事がほとんどだが、決定的なところでは勝負になる。これが政治だ。 10月18日
佐野真一は橋下が指摘するように優生思想、民族浄化思想にもつながる血脈主義、身分制度を前提にした、ナチスに匹敵するくらい危険な思想をもって『ハシシタ』を書いているのだろうか。私には、そう思えないのである。連載第一回の記事の全文を読んでみたのだが、佐野が橋下に圧倒的な嫌悪感を持っているのは事実だろう。しかし、私はそこに佐野の「差別意識」を見て取ることはできなかった(もちろん、社会学的にいえば「差別意識」がなくとも差別するということはあり得よう)。例えば、この『ハシシタ』を「『血』にこだわりすぎ、『思い込み』『独善』といっていいほどの強い思いがほとばしりすぎ、”佐野ワールド”へ引きずり込みが強すぎ、という感じがする」とツイッターで厳しい評価を下している江川紹子も佐野が差別主義者でないことは認めている。
佐野さんは差別主義者ではなく、町に立つ売春婦、在日、被差別部落といった、日の当たりにくい世界や、そこで強烈な個性を放つ人が、むしろ好きなんだと思う。橋下氏は嫌いでも、そういう世界や人に引き寄せられ、その巧みな文章力と強い思いによって”佐野ワールド”を構築しようというのだろう。
『ハシシタ』は江川の言葉を借りて言えばいつもながらの「佐野ワールド」に貫かれている「作品」であることは間違いあるまい。私が思うに佐野からすれば『ハシシタ』は報道ではないはずである。佐野はノンフィクションというジャンルの、ある意味では極北の立場から、実在の人物の精神的な原点にかかわる「物語」を紡ぎ出して来た作家である。その人物が収まっている「風景」の背後に堆積する歴史を民俗学的な(あるいは考古学的な)手法などを操使しながら、地霊を呼び起こすようにして、彼、もしくは彼女の精神的な原点(無意識)を読者を(読者の常識や良識を)挑発しながら発掘して来たのである。私からすれば佐野は人物の底の底に隠された精神史の墓堀人なのである。『ハシシタ』の連載第一回で、その終わりに橋下の実父の名前に中上健次の『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』という「路地」(被差別部落である)を題材にした小説の主人公である「秋幸」を重ね合わせているのは、『ハシシタ』を現代日本のオイディプス神話として(あるいは屈折したエレクトラ神話として)描こうとしている意図によるのではないか。言うまでもなくオイディプスとは自分の父親を殺し、自分の母親と結婚してしまうというギリシア悲劇の登場人物である。誤解を恐れずに言えば佐野にとって『ハシシタ』を書くことは「ノンフィクション文学」の問題なのであり、更なる誤解を恐れずに言えば「ノンフィクション」の「文学」に対する嫉妬の問題にほかならないのだ。そこは政治なんてあり得ようはずもない場所である。しかし、だからといって佐野が事実(ファクト)に対して無頓着であるということはない。むしろ、だからこそ佐野は事実(ファクト)に対して偏執狂なまでに執拗である。有田芳生が次のようにツイッターに書き込むのも頷ける。
佐野眞一「ハシシタ 救世主か衆愚の王か」(週刊朝日)がすこぶる面白い。レイアウトも週刊誌界の常識を破る斬新さ。取材スタッフに今西憲之さん、村岡正浩さんと最強コンビ。橋下市長は朝日新聞の取材をさっそく拒否。佐野さんの戦術にまんまとはまってしまったのは、その性格を知らない無謀反応だ。
確かに橋下は佐野の戦術にまんまとはまってしまったと言えるだろう。しかし、朝日新聞は佐野とは違った。何と朝日新聞は橋下の戦術にまんまとはまってしまったのである。橋下の戦術にまず朝日新聞の記者がはまり、やがて朝日新聞そのものがはまってしまったのである。10月18日の橋下徹は市長としての定例会見の模様は「産経ニュースwest」(http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/topics/west_affairs-16806-t1.htm)が詳しく報じている。これによれば橋下市長は定例会見で『ハシシタ』の件を取り上げ、「今回問題視しているのは、自分のルーツ、育てられた記憶もない実父の生き様、当該地域が被差別部落という話について、それがぼくの人格を否定する根拠として、先祖、実父を徹底的に調査するという考え方を問題視している」など自らの見解を述べた後で朝日新聞の記者に社としての対応を求めた。これに対して朝日新聞の記者は「社としての見解を私が言うことはありません」とまず一言だけ述べる。橋下市長は改めて朝日新聞の取材を受けない旨を明言し、他社の記者から質問を求めたが、何問かやりとりの後、朝日新聞記者は次のように発言する。
ご承知の上だと思うが、週刊朝日を発行しているのは朝日新聞出版。弊社の子会社だが、編集権は別であります。記事の内容をわれわれがチェックすることもできない。朝日新聞自体が部落差別とか血脈主義を肯定する立場とは私は思っていない。
この発言が橋下に火をつけてしまったようだ。橋下は次のように朝日新聞の記者に問うた。
じゃあ子会社にやらせたい放題ではないか。100%子会社ですから、朝日新聞の記者も週刊朝日にいっている。週刊朝日に株主としてどういう態度をとるのか。考え方が違うなら、出資を引き上げたらいいだけの話。うちは関係ないと言い切ったらいい。やらないのは週刊朝日の今回の記事を肯定したととらざるをえない。
朝日の記者は答える。
市長がおっしゃっていることと怒りの中身は分かったが、社を代表する立場ではない。ここで市長がおっしゃったことを伝えて、対応する。
橋下市長の術中にはまってしまったのである。こうなると橋下は強い。徹底的に朝日新聞記者を問い詰める。これに対して朝日新聞記者は結局、サラリーマンとしてしか応じられなかった。「週刊朝日が特定地域を指して被差別部落地域と出すことは問題ないと考えているのか」と問う橋下に対して「私の立場でいいとも悪いとも言えない。指摘はよく分かる。納得いく答えができる権限もないので」だってさ。橋下は記者個人に「特定の地域を被差別部落と公にすることは公人のルーツを探ることにおいて許されるのか」と畳み掛ける。
朝日新聞の一人間なので、どこでどういう風にそれがまわるか分かりませんからはっきりした答えにならないが、個人的にそういうことを肯定しているということはない。
挙句の果てにこの記者は「繰り返しになるが、朝日新聞社としてこれをいい悪いというのはコメントしづらい」と官僚根性を丸出しにし、最後は「あくまでも別媒体の記事内容について、適切かどうかはコメントはしづらい」と責任放棄する始末である。「産経ニュースwest」を読む限り、明らかに軍配は橋下にあがる「論戦」であったようだ。朝日新聞の記者はサラリーマンであっても、ジャーナリストとしても、また一個の表現者としても「自立」しているとは到底言い難い。しかし、腰が引けているのは、この記者だけではなかった。『ハシシタ』を連載した『週刊朝日』自身があっという間に白旗を掲げてしまったのである。『週刊朝日』元編集長の山口一臣が「橋下さん、親に告げ口じゃなくて週刊朝日と佐野さんに堂々と喧嘩売ってくればいいのに。いまのところ、ないようです」と10月17日にツイートしたのも束の間、朝日新聞は10月19日付の朝刊、社会面で朝日新聞出版の「おわび」を伝えた。
朝日新聞出版は18日、同社が発行した「週刊朝日」10月26日号に掲載された橋下徹・大阪市長に関する連載記事「ハシシタ 奴の本性」について、河畠大四・週刊朝日編集長によるおわびのコメントを発表した。コメントの全文は以下の通り。
記事中で、同和地区を特定するような表現など、不適切な記述が複数ありました。橋下徹・大阪市長をはじめ、多くのみなさまにご不快な思いをさせ、ご迷惑をおかけしたことを深くおわびします。私どもは差別を是認したり、助長したりする意図は毛頭ありませんが、不適切な記述をしたことについて、深刻に受け止めています。弊誌の次号で「おわび」を掲載いたします。
こんなにも簡単に「おわび」をしてしまうのであれば、『週刊朝日』は最初から企画をボツにすれば良かったのである。橋下徹の写真をデカデカと表紙に使ってまで開始した連載にかくも自信も、覚悟も『週刊朝日』になかったとは驚きである。朝日新聞本体からのプレッシャーによって渋々「おわび」したのだとしても、朝日新聞本体のリアクションを想定できなかったのは、編集長として余りに未熟なのではないか。朝日新聞出版が「おわび」にあるように「不適切な記述をしたことについて、深刻に受け止めてい」るのであれば、どこが部落差別にあたる表現なのか、どこが部落差別を助長するような表現なのか、そして何故にそのような不適切な表現を編集部が許してしまったのか、それこそ第三者の部落解放同盟の力を借りながらでも検証すべきだろう。
そもそも『ハシシタ』の著者である佐野真一は、この「おわび」に同意しているのだろうか。敢えて予断をもって結ぶ。朝日新聞に佐野真一を殺させては絶対にならないはずだ。