『ニューズウィーク』がアメリカでは紙のメディアとしての歴史に終止符を打ちオンライン版に完全特化

ニューズウィーク』は『タイム』とともにアメリカを代表する週刊誌である。その影響力は日本で言えば、週刊誌の持つそれではなく、むしろ朝日新聞讀賣新聞に近いといったほうが正確だろう。日本の週刊誌の最大の魅力はスキャンダリズムにあると私は思っているが、ともにそうしたスキャンダリズムに依拠した週刊誌ではない。『ニューズウィーク日本版』を見れば想像がつくように「お堅い」週刊誌である。そんな『ニューズウィーク』が紙に見切りをつけて、来年1月から完全デジタル化に踏み切るという。オンライン版しか出さないということだ。その背景にはiPadのようなタブレット端末の急速な普及があることは容易に想像がつく。要するに紙媒体としてはビジネスとして成立し難くなったということである。アメリカの雑誌の場合、例外なく広告依存型のビジネスモデルであることが知られているが、紙の週刊誌として「入り広」を確保できなくなったということなのだろう。その点、オンライン版であれば製作原価を抑制することができるし、紙媒体ほど広告を稼がなくとも、ビジネスとして十分に成り立つという判断があったのだろう。紙の『ニューズウィーク』は今年いっぱいで80年にも及ぶ歴史に幕を閉じ消えることになった。1月からのデジタル化後は名称を『ニューズウィーク・グローバル』に変更し、コンテンツも世界共通とするということも、コストを抑制することになるだろうし、広告もグローバル料金を設定できるということなのだろう。アメリカのメディア資本はメディアビジネスの世界に英語「帝国」主義の時代がやって来ることを望んでいるのかもしれない。しかし、そうは簡単に事は運ぶまい。少なくとも、わが国では『ニューズウィーク』のような雑誌のオンライン版がバカ売れするような雑誌文化の土壌はないと言って良いだろう。
日本とアメリカの雑誌は同じ紙であっても、その販売ビジネスのあり方が根本的に違うからだ。アメリカの雑誌は日本で言えば、これまた新聞と同じ読まれ方をしていると言って良いだろう。今週は『ニューズウィーク』を買って、来週は『タイム』を買うという読み方をしていないのである。読者は雑誌を書店で買うのではなく、雑誌は1年間なら1年間の定期契約によって読者のもとに届けられる直接購読が圧倒的な主流なのである。契約年数が長ければ長いほど割引率も大きくなる。こうしたアメリカの雑誌文化の土壌はビジネスとしてオンライン化を容易にさせるはずだ。毎号、特集によって『週刊現代』を買うか、『週刊ポスト』を買うか、あるいは『週刊文春』を買うか、『週刊新潮』を買うかを決める日本の読者習慣では雑誌のオンライン版はビジネスとして相当難しいはずである。実際、『ニューズウィーク日本版』の紙版は残るという。共同通信によれば「日本では出版の電子化がまだ過渡期にあり、雑誌形態と既に販売中の電子版の併存が読者の利便性に沿うと判断した」そうだ。問題はここで言う「電子化がまだ過渡期」をどう捉えるかだ。日本もやがてアメリカのようになるのかということだが、雑誌をはじめとした紙の媒体がデジタル化と無縁でいられないことは、電車に乗れば即座に理解できよう。今や車内で雑誌や新聞を読んでいる乗客は少数派になりつつある。多くのの乗客はスマホとにらめっこしている。この光景は活字コンテンツがまだまだ多くの人々を魅了している事実を物語っていることは間違いない。ただ、彼らに(私も含めて)オンライン雑誌を定期購読する習慣が根付くかといえば、根付かないだろう。恐らく、多くの読者が求めているのは読みたい記事だけを読めるようになるビジネスではないのか。価格を100円以下にした記事のバラ売りによって、自分のためにカスタマイズできるようなオンライン版であれば、可能性があると私には思えてならない。雑誌が、というよりも、雑誌が果たしてきた役割が消滅することはないにしても、インターネット化は避けて通れまい。ただし、アメリカと同じビジネスモデルで日本に着地するとは思えないのである。日本の読者=ユーザーはアメリカの読者ほど大雑把ではないのである。日本の読者=ユーザーは良く言えばきめ細かい、痒いところに手の届く雑誌文化のインターネットという新大陸への着地を求めているのではないだろうか。日本の読者=ユーザーは悪く言えばセコイのである。