佐野眞一の『ハシシタ』についてパート2

朝日新聞政治記者から鳩山一郎首相秘書官に就任した、ジャーナリストから政治家に「転向」した若宮小太郎を父に持ち、現在は朝日新聞緒方竹虎(緒方もまた政治家に転向し、大東亜戦争中は国務大臣を務めた「戦犯」である)と同じく「主筆」として君臨する若宮啓文は『週刊朝日』10月26日号の緊急連載「ハシシタ 奴の本性」をどのように読んだのだろうか。今回の一連の騒動を通じて、何よりも私は若宮の言論人としての見解を聞きたいと思った。若宮は長野支局に勤務していた1970年代に県版に長野県の被差別部落をルポする長期連載を行い、これを『ルポ現代の被差別部落』として一冊に纏めて刊行している。若宮は、ここで実名にこだわることで、また地図までも示すことで、部落差別の実態を厳しく告発している。そんな若宮であればこそ、今回の問題に無関心でいられるはずはないだろうし、このことに一行を触れずに頬かむりを決め込むのだとしたら、「主筆」の名に値しまい。ましてや『週刊朝日』が11月2日号の冒頭2頁をわざわざ割いて掲載した編集長・河畠大四名義の「おわびします」のような酷い文章を見せ付けられたとなれば尚更である。週刊誌としては異例なほど大きな扱いの「おわび」だが、内容がともなっていないのである。何故、この文章が酷いのか?若宮であれば理解できよう。意図的にかと疑いたくなるほど「寝た子は起こすな」という安直な立場(部落差別を温存する立場でもある)から、具体を避け抽象的な言い回しに逃れるようにして書かれているからだ。書き出しからして不愉快である。

本誌10月26日号の緊急連載「ハシシタ 奴の本性」で、同和地区を特定するなど極めて不適切な記述を複数掲載してしまいました。タイトルも適切ではありませんでした。

河畠は「ハシシタ 奴の本性」に不適切な記述があったことは認めている。しかし、不適切な記述が人権侵害に当たるものであったと河畠自身が心から認識しているのであれば「同和地区を特定するなど」という書き方は絶対にしてならないはずだ。河畠の言う「極めて不適切な記述」とは「など」で済まされるほど、軽い問題なのだろうか。河畠及び朝日新聞出版、そして若宮を主筆に据える朝日新聞本体は腹の底では考えているのだろうか勘繰りたくもなろう。私には次のようなくだりの文章も理解できない。

差別を是認したり助長したりする意図はありませんでしたが、不適切な表現があり、ジャーナリズムにとって最も重視すべき人権に著しく配慮を欠くものになりました。

「差別を是認したり助長したりする意図」がない表現が、「人権に著しく配慮を欠く」ような「不適切な表現」であったとは、どういう事態を指すのだろうかということである。これでは編集現場の実情にそぐわないのではないか。ここは本来であれば次のように正直に書かれることから始めなければなるまい。

差別を是認したり助長したりする意図はありませんでしたし、不適切な表現があるとは思いもしませんでしたが、結果的にジャーナリズムにとって最も重視すべき人権に著しく配慮を欠くものになりました。

私に言わせれば、こう書いたうえで、ここに至った事実経過とともに、しでかしてしまった人権侵害を具体的に説明しそのうえで自己批判に至らないのであれば、そんな文章は何も言っていないに等しい。それとも「おわび」とは、その場限りのことなのか。そこに自己批判の真摯さを読み取ることはできない。次のような文章も私には理解しかねる。事実を伝えているとすら思えないのである。

この記事を掲載した全責任は編集部にあります。記事の作成にあたっては、表現方法や内容などについて、編集部での検討だけではなく、社内の関係部署のチェック、指摘も受けながら進めました。しかし、最終的に、私の判断で第1回の記事を決定しました。

記事の作成に当たっては編集部のみならず、社内の関係部署のチェック、指摘も受けているにもかかわらず、誰ひとりとして「人権に著しく配慮を欠く」ような「不適切な表現」に気がつかなかったとしたら「異常」だろう。たとえ編集部に「差別を是認したり助長したりする意図」がなかったとしても、部落差別にかかわる書籍を何冊も刊行してきた経験を持つ出版社の関係部署(校閲や編集総務であろう)のチェック、指摘も受けながらすすめた記事に一箇所ならず、複数にわたる不適切な記述を見逃してしまったのだとしたら、それは朝日新聞出版社にジャーナリズムを担う資格がないと自ら認めていることになるのではないか。それとも「おわび」は社をあげて考えついた寝た子を起こさないための方便(奴隷の文章)に過ぎない?だから、こんなにも簡単に連載を中止してしまったのではないかという疑念が湧いてくる。河畠編集長をはじめとした朝日新聞出版の社員は編集から販売に至るまでの関係者すべてが、『週刊朝日』に人権侵害にあたる表現があったことを本心から認めるのであれば、「寝た子を起こすな」という逃げからではなく、第三者を入れての検証委員会を立ち上げ、どこが部落差別にあたる表現なのか、どこが部落差別を助長するような表現なのか、そして何故にそのような不適切な表現を編集部が許してしまったのか、これを徹底的に検証した総括を私たちに公開すべきである。「今回の反省を踏まえ、編集部として、記事チェックのあり方を見直します。さらに、社として、今回の企画立案や記事作成の経緯などについて、徹底的に検証を進めます」と言うだけでは舌足らずなのである。私たちが知りたいのは「建前」ではなく本当のところなのである。この「おわび」は「本当のところ」を著者の佐野眞一を問題の埒外に置くことによって隠蔽してしまっているがゆえに酷いのである、最低最悪なのである。河畠なる編集長は読者をみくびっているのではないか。言うまでもなく『週刊朝日』には読者に対する説明責任も当然問われているはずだ。それができないのであれば商売としては赤字を垂れ流しているだけだとしか思えない『週刊朝日』なんぞ一刻も早く休刊してしまえば良いのである。読者はこのような「おわび」に騙されてはなるまい。ここは朝日新聞が子会社の朝日新聞出版に命じた「政治」の可能性を想像すべきだろう。
橋下徹にしても、この程度の「おわび」で朝日新聞に対する取材拒否をノーサイドにしてしまうのであれば、橋下は相当に頓馬な政治家と言わねばなるまい。そのような頓馬に日本という国家の統治機構の抜本的な改革が可能であると私には思えないのである。その機会主義を百戦錬磨の官僚に足元を掬われ、「官僚文学」に騙されてイッカンの終わりなのではないだろうか。
朝日新聞が白旗を掲げた後、橋下徹ツイッターに次のように書き込んでいた。

共産党は、弁護士会同様、僕のこと大嫌いですしね。嫌いな奴の人権なんて守りませんよ。生身の人間なんてそんなもんですよ。

この書き込みの意味を間違って捉えてはなるまい。橋下のことを大嫌いな共産党は橋下の人権を守らないと橋下は述べているのである。橋下の立場から言えば『週刊朝日』の件で、橋下は自分の人権は自分で守ったということになるのだろう。実際、このツイートは狭山裁判における日本共産党の冷たさを見ればわかるように日本共産党の体質を言い当てていると私は思う。しかし、その一方で橋下も日本共産党と同じではないのかと言ってみたくなるのである。橋下も日共スターリニストと同じに自らの人権に対しては敏感であっても、他者の人権には鈍感なのではないだろうか。頭の中には党派的な利害しか巣くっていないということである。部落解放同盟の中央機関紙である「解放新聞」は7月23日付の紙面で「市民交流センターの廃止に反対する『なくさないで! 市民交流センター市民集会』が7月12日午後、大阪市中央公会堂でひらかれ同センターの利用者や支援者など967人が参加」したと伝えている(http://www.bll.gr.jp/news2012/news20120723-2.html)。集会後には大阪市役所をデモで包囲したという。記事によれば市民交流センターは隣保館のひとつである。全国隣保館連絡協議会は隣保館の目的を次のように定義している。

同和地区およびその周辺地域の住民を含めた地域社会全体の中で、福祉の向上や人権啓発のための住民交流の拠点となる地域に密着した福祉センター(コミュニティセンター)として、生活上の各種相談事業をはじめ社会福祉等に関する総合的な事業及び国民的課題として人権・同和問題に対する理解を深めるための活動を行い、もって地域住民の生活の社会的、経済的、文化的改善向上を図るとともに、人権・同和問題の速やかな解決に資することを目的としている。

週刊朝日』に受けた人権侵害を受けた橋下徹であれば、上記に書かれた隣保館の目的を誰よりも深く理解しているはずである。しかし、大阪市長の橋下は市民交流センター(隣保館)の必要性がなくなったとして市民交流センター(隣保館)を廃止しようとしているらしいのである。解放新聞の記事は次のように書いている。

大阪府連の北口末広・執行委員長はあいさつで、▽「橋下市長は市民交流センターは必要性がなくなった」とのべているが、では部落差別は本当になくなったのか。区長公募論文のなかで「東淀川区は他の区と犯罪率は変わらないがイメージが暗い。それは区内に3つの同和地区があるからだ」というものがあり、この人が区長に選ばれた。選んだのは市であり任命責任追及をおこなわなければならない▽パブリックコメントでは同センター廃止反対の声が2800件以上よせられた。同センターが地域外の多くの人たちに利用されているという証だ▽被差別の状況を訴えなければ差別はなくならない。大阪市長の意見だけで、培ってきた歴史や文化を壊してはだめだ。解放会館からはじまった同センターの歴史を守り抜こう。条例を廃止させないために闘っていこう、と訴えた。

隣保館の必要性がなくなったということは部落差別がなくなったという現実なくしては言えないことではないのだろうか。そもそも部落差別がなくなっているのであれば、橋下の『週刊朝日』に対する批判はあたらないことになってしまうだろう。部落差別が現にあり、それでも隣保館を廃止しようというのは、橋下が嫌いな奴の人権は守らないからなのではないだろうか。何てことはない!橋下徹日本共産党と同じ体質を抱え込んだ政治家にほかならないのだ。作品として完成したものを読まなくてはわからないが、こうした橋下の人間としての本質を暴くために佐野はヤクザであった橋下の実父を描いたのではないだろうか。もっとも、これは私の推測にほかならない。連載の第一回を読むだけでは誰だって推測しかできまい。なればこそ、佐野眞一は『ハシシタ』を作品として完成させる使命を作家として負っているのではないだろうか。今まさに佐野を担当して来た各出版社の編集者の「力量」が問われているはずだ。佐野は何としてでも刊行に漕ぎ着けるべきだし、仮に出版できなくとも、佐野は何らかの形で「作品」を大衆に晒してゆくことが部落差別を真に解消する第一歩になるはずだ。作家として筆一本で生きるとは、そういうことなのではないだろうか。むろん、その場合、批判するのは橋下だけであってはなるまい。『週刊朝日』を刊行する出版社を傘下に持つ朝日新聞も橋下同様に批判すべきである。橋下徹朝日新聞の、ある意味で共犯関係にまで切り込むことが、この国の「どうしようもなさ」を暴くことになるのだから。佐野よ、一刻も早くペンを取れ、ペンを取れ、ペんを取って叫べ、叫ぶのだ!
福島第一原発放射性物質をばら撒くことになった過酷事故に際して、新聞、テレビのマスメデテアは現場から逃げ出し、大本営発表を繰り広げた。ジャーナリズムとして思考停止し、職場放棄をしたに等しいと私は思っているが、今回もまた朝日新聞の記者諸君の思考停止ぶりには驚きを禁じえない。一時は威勢の良い文章をツイッターに書き込んでいた
朝日新聞・橋下番(@asahi_hb)は、この問題が起きる遥か以前の9月8日以降、一言もツイートを発信していないし、朝日新聞には数多いるはずのツイッター記者は誰一人として、この問題について呟こうともしていない。この「ていたらく」は一体何なのだ。君たちは記者、あるいはジャーナリストとして恥ずかしくないのだろうか。「個立」が足りないのだよ、サラリーマン記者は!反吐が出る。朝日新聞記者と書いて汚物と読む、のだろう。断るまでもなく比喩である。悪しからず、ってね!そうそう、橋下にも言っておかねばなるまい。橋下は「言論市場」なる言い方をしているが、ソーシャルメディアにおいては「言論市場」なんてないのだと。「言論市場」は「自由な言論」にとって一部にしか過ぎないのだよ。言論を「言論市場」においてしか捉えられないのは橋下がテレビ文化人であることの限界であるし、より本質的には新自由主義者の限界であろう。