佐野眞一「ノンフィクション再考」について考える

蔵書というほどのことはないにせよ、我が家はそれほど広くないため、年に数回ほど、家の其処等中に散らばっている本を整理し、不要であると独断したものは古書店に売り払うことにしている。そうしたなか生き残った書籍が大まかではあるがジャンルなり、著者別で本棚や自分の寝室の床に居場所を発見することになる。佐野眞一の著作で私がストックしているのは『巨怪伝─正力松太郎と影武者たちの一世紀』『カリスマ-中内功ダイエーの「戦後」』『東電OL殺人事件』『阿片王 満州の夜と霧』『甘粕正彦 乱心の曠野 』『枢密院議長の日記』の五冊である。私は佐野の著作の大半は読んでいるし、その上で五冊も手元に残しているということは、私が相当の佐野ファンであることを物語っている。特に昭和前期を対象とした作品は私の関心とも重なり合うだけに一度のみならず何度か読み返しているほどである。更に言えば『現代プレミア ノンフィクションと教養』において10名の選者が、それぞれ100冊のノンフィクションを選ぶという企画において佐野が朝倉喬司の『犯罪風土記』をあげていたことも、「朝倉狂」を任じる私にとっては佐野をノンフィクション作家として特別な存在にしていた。それだけに佐野が大阪市長にして国政進出をはかろうとしている橋下徹を『週刊朝日』で取り上げた際は、その連載第1回が掲載された号を早速、駅の売店で買い求めた。しかし、連載は1回で中止しなってしまう。当時、編集長であった河畠大四の「おわび」には次のように書かれ始めている。

本誌10月26日号の緊急連載「ハシシタ 奴の本性」で、同和地区を特定するなど極めて不適切な記述を複数掲載してしまいました。タイトルも適切ではありませんでした。このため、18日におわびのコメントを発表し、19日に連載の中止を決めました。

部落解放同盟中央本部が10月22日付で公表した抗議文は、この記事の内容が明確な部落差別にあたるとしたうえで、今回の差別記事の被害者は橋下徹だけではなく、全ての被差別部落出身者であると述べている。
佐野のこれまでの仕事は、どちらかといえば被差別者や社会的な弱者に対する共感と連帯を底流に秘めた作品が多かっただけに、こうした部落解放同盟中央本部からの抗議に対しては身を切られる思いであったに違いない。そうであればこそ、佐野は連載を第一回で打ち切られた橋下徹の人物ルポを自らの自己批判を踏まえたうえで完成させるべきだと私は思った。しかし、そんな佐野に「盗作疑惑」が持ち上がる。猪瀬直樹ツイッターで10月19日に

1985年11月号月刊『現代』「池田大作『野望の軌跡』」(佐野眞一)は1981年三一書房刊『池田大作ドキュメント−堕ちた庶民の神』(溝口敦著)からの盗用が10ケ所もあり、翌月『現代』12月号に「お詫びと訂正」があります。このときから品性に疑問をもち付き合いをやめました。

と指摘したのを端緒にネットメディアの『ガジェット通信』が現在まで12回にわたって「佐野眞一氏の『パクリ疑惑』に迫る」(http://getnews.jp/archives/265781)として詳細に報じた。「盗用」された当事者の溝口敦もブログでその経緯を明らかにするとともに佐野が溝口に宛てて出した「詫び状」も公開してしまった(http://www.a-mizoguchi.com/sanoshi.html)。
こうした経緯を踏まえて佐野は昨年暮れに『週刊ポスト』に自己批判を込めて「ノンフィクション再論」を発表した。もっとも、この文章を発表してからも佐野と同業のノンフィクション作家や一部の編集者から佐野は筆を折るべきだと厳しい指摘がツイッターなどで見受けられた。
しかし、それでも私は佐野が筆を折るべきではないと考える。内省と自己批判繰り込みながら、書き続けるべきだと思う。創価学会を取り上げた『化城の人』を完成させるべきであるし、橋下徹を題材にした作品も何としても完成させるべきであると考える。書くことを稼業とする人間は書くことによってしか自らの過ちを総括することはできないはずである。佐野は「ノンフィクション再考」で「創価学会橋下徹も大マスコミがなかなか取り上げないテーマである。それに挑戦したのは、言論にタブーはあってはならないという思いからだった。その点に関して私には何ら恥じるところはない」と書き、「私は針の筵に座るのは承知で、調査報道の原点に立ち戻りたいのである」と書くことに私は読者の一人として同意する。佐野の新作が書店に並べは身銭を切って買うことであろう。しかし、だからといって私は佐野の「ノンフィクション再考」を全面的に首肯するわけにはいかない。むしろ、佐野が「ノンフィクション再考」であらわにしたところのインターネットに対する「偏見」に底流する民衆の「生活意識」と遥かに乖離した「エリート意識」を私は糾弾しなければなるまい。佐野はこう書いている。

メディアの危機がこれほど叫ばれた時代はない。多くの雑誌は廃刊となり、長いものには巻かれろ式の大政翼賛会的風潮は日増しに強まっている。そして真偽入り混じったネット情報がまかり通り、それに比例して言論機関はますますシュリンクしている。
私にはこうした物言えば唇寒くなる状況に対するのっぴきならない危機感があった。だが、「週刊朝日」の一件は、こと志に反してその風潮を助長させる結果になってしまった。慙愧に堪えない。
それを百も承知の上で言わせてもらえば、こういう状況にあっては、現場を歩くことでしか書き得ない、つまりネットでは絶対に書き込むことができないオリジナルなノンフィクションがますます必要とされる。

確かに「長いものには巻かれろ式の大政翼賛会的風潮は日増しに強まっている」と私も実感せざるを得ない。特に3.11後の新聞、テレビの報道は日本のマスメディアが本質的には1930年代の過ちをまるで総括していなかったことを図らずも露呈させてしまった。3.11以前においても政治家・小沢一郎の「政治とカネ」にかかわる報道でも、その片鱗を見せていたが、2011年3月11日の大地震に引き続き起こった「大人災」たる福島第一原発メルトダウン事故におけるマスメディアの報道はジャーナリズムの役割を放棄していたとしか私には思えなかった。こうした認識において佐野と私は何ら変わることはなかろう。私が理解できないのは次にくる「そして真偽入り混じったネット情報がまかり通り、それに比例して言論機関はますますシュリンクしている」という件である。ネット情報に真偽が入り混じっているのは事実であるとしても、佐野はここで「ネット情報」の「情報」と「言論機関」の「言論」を対比させ、あたかもネットに氾濫するのは「情報」だけであって「言論」は微塵にも存在しないかのような印象を少なくとも私には与えた。逆に私は佐野のように雑誌が何の留保もなしに「言論機関」たりえるなどという甘ったれた考えを持ったことはない。「機関」などと大袈裟に構えたところで本質は「売文メディア」にほかならないと斜に構えたところから「自由な言論」を紡ぎ出すための戦略と戦術が書き手には問われるのだと私は考えている。そもそも片や「ネット情報」と斥け、片や「言論機関」と持ち上げるような思考にインターネットをメディアとして見下す「差別意識」はないのか。そうした「エリート意識」の裏返しでしかない「差別意識」に絡めとられているから、佐野は「現場を歩くことでしか書き得ない」「オリジナルなノンフィクション」は「ネットでは絶対に書き込むことができない」とまで言い切れるのであろう。そんな断定に私はくみしたくない。インターネットは確かに玉石混交で、しかも石が圧倒的な多数派を形成しているとはいえ、「宝」もまた存在しているし、インターネットから生まれたソーシャルメディアによって誰もが簡単にメディアを駆使できるようになった。つまり民衆にメディアが解放されたという意味において革命的である。かつてルポライター竹中労は「言論の自由は、電車の網棚の上に読みすてられるイエローペーパーの中にしかない」と喝破したことがあるが、その口吻を真似るのであれば、民衆にとっての言論の自由は佐野に「現場を歩くことでしか書き得ない」「オリジナルなノンフィクション」は「ネットでは絶対に書き込むことができない」と言われて批判されるインターネツトの中にしかないのである。例えそれが「偽」であったとしても、そこに民衆の汗にまみれた生活から発せられる「喜怒哀楽」が張り付いたようなネットの言葉に出会うことはザラである。そうした「真」であろうが、「偽」であろうが民衆の喜怒哀楽を表出してやまない言葉の蓄積を背景にしてインターネットのなかから「現場を歩くことでしか書き得ない」「オリジナルなノンフィクション」が生まれる可能性は常にあるはずである。いや現に生まれていて、私が気がつかないだけのことなのかもしれない。
私は先に佐野は『化城の人』を完成させるべきであるし、橋下徹を題材にした人物ルポも完成させるべきだと書いた。佐野も「ノンフィクション再考」で「ここで筆を折るわけにはいかない」と書いている以上、完成させるつもりであろう。しかし、完成させるに際して出版社が連載なり、刊行に首を縦に振らなかったならばどうするつもりなのだろうか。あっさり、連載なり刊行を諦めてしまうのだろうか。しかし、それでは「過ちを過ちとして反省」したことにはなるまい。書くことを稼業とする佐野は書き続け、作品を完成させることによってしか「過ちを過ちとして反省」できないはずである。あらゆる発表の場を失ってなお書き続けなければならないとき、しかもその行為を自己満足で終わらせるのではなく、作品をあらゆる読者に対して開かれたものにしようとしたとき、そう佐野はインターネットのメディアとしての可能性に直面するはずである。仮に出版社が首を縦に振らなくとも、佐野はインターネットを通じて「現場を歩くことでしか書き得ない」「オリジナルなノンフィクション」を発表することができるのである。そういう覚悟をもって初めて「物言えば唇寒くなる状況」に対峙できるに違いない。佐野眞一はノンフィクション作家として売れっ子だし、大家であるのかもしれないが、佐野に欠けているのは「個立」の覚悟だ。そもそも表現とはやむにやまれぬ「心情」の「個立」にほかならないのではないだろうか。