暴力教師の「暴行」を「体罰」と言い換えるべきではない!

大阪市立桜宮高校の2年生でバスケットボール部の主将をつとめていた少年が昨年12月23日自殺した。
「高2自殺 体罰常態化か」(1月9日付朝日新聞)
体罰、他部員にも 大阪・高2自殺 教諭『発奮のため』」(1月10日付朝日新聞)
他の新聞も右から左まで似たりよったりであった。
「バスケ部主将の高2自殺、前日に顧問教諭が体罰 大阪市立桜宮高」(産経ニュースwest 2013.1.8 10:45)
「大阪高2自殺 顧問『他部員にも体罰』 府警市教委職員など聴取へ」(1月10日付東京新聞)
どの新聞も、またテレビでも「体罰」という言葉を何の疑いもなく安易に使っている。見事なまでの横並び報道である。

大阪市立桜宮高校(大阪市都島区)の2年男子生徒(17)が昨年12月、所属するバスケットボール部の顧問の男性教諭(47)から体罰を受けた翌日に自殺した問題で、生徒が「今日も(顧問に)殴られた」などと何度も母親に打ち明けていたことがわかった。1月9日付讀賣新聞「高2自殺、主将就任以降に体罰集中か…母に話す」

デジタル大辞泉」によれば「体罰」とは「肉体に直接苦痛を与える罰」であり、「罰」とは「罪や過ちに対するこらしめ」にほかならない。自殺した少年は、どんな罪や過ちをおかしていたのだろうか。こうした事件に際して、新聞やテレビが「体罰」という言葉を使い続ける限り、教師が自らの特権的(=権力的)な立場を利用しての生徒に対する「暴行」がなくなることはないであろう。事件を「体罰」という言葉を使って説明することで、生徒を殴ったり、蹴ったり、平手打ちを喰らわすような「暴力」をあたかも生徒に対する「愛情」による「指導」であったと強弁し、正当化する余地を単なる暴力教師に与えてしまうだけである。こうした事件に際して、いつまで経っても「体罰」なる言葉を使って説明してしまう文化が社会に定着してしまっているから、子どもたちは自殺するまで追いつめられてしまうのである。明治33年(1900)の小学校令(明治三三年)47条には、こう書かれている。

小学校長及教員は教育上必要と認めたるときは児童に懲戒を加ふることを得但し体罰を加ふることを得ず。

私たちの社会は100年以上にわたって教師の「暴力」を「体罰」として錯覚したままなのである。こうした事件が痛ましいのは自殺が暴力教師に対する抗議ではなく(子どもたちの自衛権の究極的な発動としてではなく)、むしろ、子どもたちが自分を責め立てた結果として自殺が選択されているからである。自殺というよりも「自裁」なのである。自らの「死」をもって、自らを「裁」いてしまう。暴行を働いた教師の「罪」は不問に付されたままに、である。本質は「暴行」であるにもかかわらず、「体罰」と言い換えてしまうことで、暴力教師に対する「同情」さえも生んでしまうのだ。「『先生は間違っていない』『古いタイプ』“熱血”指導で全国大会常連校にした顧問」(産経ニュース)によれば、この暴力教師は「高校バスケ部の指導者として全国的に知られる存在で、16歳以下の男子日本代表チームのアシスタントコーチも務めていた。以前から体罰も含めた“熱血”指導で知られ、同部を全国大会の『常連校』に育て」たこともあって、「指導を受けるために学区内に転居して同校に通うケースもある」ほど人気があり、「卒業生からは『先生がやってきたことは間違っていない』などと擁護する声も聞かれ」るという事態は、「暴行」を「体罰」と言い換えてきた文化がもたらした最低最悪の倒錯なのである。「先生がやってきたことは間違っていない」と感じる卒業生が悪いのではない。問題なのは、そのように錯覚させてしまう「イデオロギー装置」であり、その一翼を間違いなく担ってきたマスメディアなのである。