これだから政治の言葉が信用されなくなってしまうのだ。今度は「おおむね」か!
4月10日付朝日新聞によれば政府は大飯原発3、4号機の再稼動問題について「9日の関係閣僚会合で、暫定的な安全基準に『おおむね適合している』と判断し、安全性を確認した」そうだ。会合後に会見に臨んだ経済産業相の枝野幸男が「基準をおおむね充たしている」と述べたことは新聞の報道のみならず、テレビでも放送された。私だけではあるまい。
「おおむね」という言葉にひっかかったのは!何故、枝野は「安全基準を充たしている」と言えなかったのだろうか。「おおむね」ということは『デジタル大辞泉』によれば「その状態が大部分を占めるさま」である。つまり、枝野は「大部分」は安全基準を充たしているが、充たしていない部分もあると言っているわけだ。そう「おおむね安全」とは「まだ危険」だということを意味する。
もちろん、福島第一原発の過酷事故を眼前に突きつけられた以上、原子力発電所について誰もが絶対に安全だとは考えていまい。そうであれば、原子力発電所を稼動させるに際して、「おおむね」では困るのだ。基準を充たしていない部分もあることに生活者は不安を抱くのである。画餅でしかない「反原発」という政治イデオロギーが普通の生活者に浸透する「余地」を与えてしまうのだ。しかも、枝野は4月2日の参院予算委員会で、大飯原発の再稼動について「現時点で私も再稼働反対だ」と述べることはあっても、「大飯原発再稼動の意義」について語っていない珍しい経済産業大臣である。
枝野の発言を軸に大飯原発の再稼動問題を追っていくと、「おおむね」という言葉の裏側に何かあるのではないかと生活者が不安に駆られても致し方ないことだと言うべきだろう。実は枝野が「おおむね」という言葉を使ったのは今回が初めてではない。ロイターによれば野田佳彦首相、枝野幸男経済産業相ら関係3閣僚が4月5日に大飯原発再稼働問題に関する協議を行った際にも、協議後、記者団に「再稼働に当たっての安全基準案を説明し、おおむね内容については了解した」と語っているのだ。
言うまでもなく、このとき政府は結論を出していない。この発言を踏まえるのであれば、「おおむね」という部分が解消された段階で政府は大飯原発再稼動へ安全性を確認するのだろうと私などは思っていた。枝野は安全性を確認してもなお「まだ危険だ」というニュアンスを孕む「おおむね」という言葉にこだわった。枝野は「おおむね」という言葉を挟むことによって、未来の責任を回避しているのではないだろうか。
私は冒頭に「今度は」と書いたが、それは枝野が生活者を不安、不信に陥れる言葉を使ったのがこれで二度目であるからだ。前回は「直ちに」という言葉をもって枝野は官房長官として福島の生活者を恐怖のどん底に陥れた。枝野は福島第一原発の過酷事故に際して、昨年3月16日に屋内退避地域の放射線量について「直ちに人体に影響を及ぼす数値ではない」と述べた。
「直ちに」とは「すぐに」ということであり、このような官房長官の発言は「すぐに健康に影響を及ぼす数値でないにしても、いずれ健康に影響を及ぼす数値である」と生活者に理解されてはずである。東京電力によって撒き散らされた放射性物質に対する恐怖感が社会に一気に広がったと言っても良いだろう。私にしても枝野がこの時に発言した「直ちに」という言葉は強烈な印象をもって脳裏に刻まれた。
その上で私たちは3月20日に茨城県内のホウレンソウ1件と、福島県内の4カ所の原乳から、暫定基準値を超える放射性物質が検出された際に枝野から再び「直ちに」という言葉を聞かされることになる。「今回、検出された放射性物質濃度のホウレンソウを摂取し続けても、直ちに健康に影響を及ぼすとは考えられない」と。「直ちに」健康に影響はなくとも、「やがて」健康に影響があると多くの人々は枝野発言を理解したに違いない。
枝野の「直ちに」は放射線物質に対する生活者の不安を増幅させていったのである。同時にこのような発言を繰り返す政治の言葉は信用できないと判断したはずである。枝野は直ちに健康に影響がないと何度も何度も連発しているわけではない。しかし、私にしてもそうだが、多くの人々は、枝野が何度も直ちに健康に影響がないという発言を繰り返していたような印象を持っているはずだ。それほどインパクトを持ったわけである。このことが何を意味するかと言えば、枝野の「直ちに」という表現は生活者から放射線物質を正確に怖がる契機を奪うことになったということではないだろうか。
昨年の「直ちに」せよ、今回の「おおむね」にせよ、枝野からすれば細心の注意を払って発せられた言葉なのかもしれない。しかし、細心の注意といっても、どういう質を孕んでいるかは検証されなくてはなるまい。私に言わせれば、「直ちに」も「おおむね」も未来における責任を放棄してしまうことなしには呼び出されなかった言葉である。
枝野からすれば現在に責任を負うことが政治なのだろう。「直ちに」や「おおむね」という言葉は枝野にとって未来の時点において断罪されることのない免罪符にほかなるまい。未来の枝野を安全圏においているということでもある。政治家として次を狙うために紡ぎ出された表現なのだろう。具体的に言えば内閣総理大臣ということになろうか。
しかし、未来に対する責任をここまで露骨に放棄してしまう政治の言葉に政治の未来を安心して託せようか。否である。むしろ、未来に対して責任を負っていないがゆえに生活者の現在を不安に陥れる機能さえ働かせてしまうのだ。何故なら、未来に通じていない現在などないからだ。枝野は「直ちに」や「おおむね」を駆使することで、自らの未来の安泰を手に入れたつもりだろうが、そのことと引き換えに私たちに未来を断念することを強いているのだ。生活者がそのような政治や政治家に不信を抱くのは当然のことである。
普通の生活者が信頼を寄せ、信用する政治とは現在に責任を負うことによって未来にも責任を負う政治なのだ。現在の課題に向き合うことは、同時に未来の課題にも向き合っている、そういう政治である。私は現在にだけ責任を負い未来の責任を回避しようという政治に一票という主権を行使する気には到底なれないのである。