求龍堂から刊行されている中川幸夫の作品集を見たときの衝撃が忘れられない。これが「生花」なのかという衝撃はこれこそが「生花」なのだという確信に変わっていった。
「生花」の歴史は池坊に始まるが、池坊の掲げる「生花」には二種類がある。正風体と新風体である。池坊の正風体と言えば真・副・体という役枝によって成立させる三種生けが即座に想起されるかもしれないが、三種生けは昭和になってから生まれた近代の産物にしか過ぎない。生活の住環境の変化にともない三種生けが誕生するのである。
正風体において最も伝統的なのは一種生けであろう。人工的に形成された空間に生きたままの「自然」を圧縮して現出させるのである。「生花」により例えば茶室は単なる空間ではなく宇宙へと進化を遂げる。しかし、三種生けから更に現代感覚に依拠する新風体へと至る過程で、「生花」は大衆化と引き換えに一種生けならではの世界観を支える美のラジカリズムは忘れ去られていく。
中川幸夫は白菜を活けた「ブルース」という作品の評価をめぐって家元と対立し、1951(昭和26)年に池坊を脱退する。といって、勅使河原蒼風が昭和元年(1927)に創流した「草月流」に合流するわけでもなかった。中川は決定的な自由を求めて、あらゆる家元を拒絶したのだ。「たった一人の前衛」を選択する。1952年にニューヨークで個展を開いたのを皮切りに世界で評価を高めていった勅使河原蒼風が最も意識していたのは中川幸夫ではなかったろうか。中川の才能に嫉妬していたのかもしれない。だからこそ蒼風は中川をこれは華道ではないと評するしかなかったのである。蒼風の獲得した「自由」はある意味で家元に守られた「自由」に過ぎなかった。もっと言えば蒼風にとって「生花」は絵画であり、音楽であり、彫刻であったが、中川幸夫にとって「生花」は「生花」であった。「生花」に徹底する。しかし、決定的な自由とは絶対的な孤独でもある。中川幸夫が目指した「自由な表現」とは絶対的な孤立に戦慄することでもあった。一人の生徒もとらず、喫茶店での花生けの仕事を収入源に狭いアパートで「花」と向き合ったという。
中川以前の「生花」は伝統であろうと、新興であろうと、前衛であろうと「生」に依拠することで「性」を捨て「形式」を選択する。「自然」から「死」を排除した「人工」を創造した。「生」に「死に至るリアリズム」を持ち込むことで「性」を復活させ「自由」を獲得する。むしろ、中川の「自由」は「自然」に忠実であろうとした。だから「死」を回避しなかったのである。
中川は『鬼火』では花材として忌み嫌われる曼珠沙華を墓石の上に盛った。真っ赤なカーネーションをラップに包み、一週間、放置しておくと色素が分離した水分とともに漏れ出すという方法論によって創造された『花坊主』は、写真からその「異臭」が伝わってくる。それはヘモグロビンの「異臭」だ。「いけたら、花は、人になるのだ」とするのが勅使河原蒼風だが、中川幸夫は人となっただけでは済まさない。「死体」とさえも向き合う。花は枯れ、人は死ぬのが「自然」なのだ。守りつくして、破るとも、離るるとも、本を忘れず。千利休が朝顔の花を一輪だけ残して、あとはすべて摘み取ってしまったように中川幸夫は900本のカーネーションをガラス器に密封してしまったのである。本来、「生花」が持っていた美のラジカリズムがここに復権させられることになる。
「前衛」とは「革新」ではないのだ。「前衛」とは「復古」なのである。この逆説に生きる覚悟がない限り、「前衛」を背負うことなどできないのだ。『天空散華』では20万本のチューリップの花びらを空から散らした。「エロティシズムとは死に至るまでの生の讃歌である」というバタイユの一節は中川幸夫の「生花」にこそ献ぜられるべき一節であろう。
中川幸夫は3月30日、老衰のため介護施設で死去したという。享年93歳。