歌謡曲でたどる戦後史(1) 星の流れに

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

昭和20年(1945)8月15日正午、ラジオから昭和天皇の肉声が流れた。昭和天皇大東亜戦争を日本の降伏によって終えることを国民に伝えた。実は昭和天皇玉音放送のなかで「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル」とアメリカの広島、長崎への原爆投下による大虐殺を批判しているのだが、こうしたフレーズは忘れ去られ、玉音放送で最も強調されてゆくことになるのは「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」という箇所であろう。実際、街は空襲で焦土と化していたし、食糧難は戦時中よりも酷くなったし、失業者も600万人と推定されるし、上野駅などには戦災孤児が屯っていた。そうした状況を民衆は耐え忍んできたことから、玉音放送では「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」という件が印象に残っていったということなのだろう。
内務省警保局長から全国の警察に慰安所の設置の通達が出されたのは玉音放送から一週間も経っていない8月18日のことである。「日本婦女子の純潔が性に飢えた進駐軍兵士らに損なわれる」ことを危惧しての東久邇稔彦首相らの判断によるものであった。こうして8月26日「特殊慰安施設協会」(RAA)が銀座に設立される。3000万円の銀行融資を認めたのは後に首相として「所得倍増計画」を打ち出す大蔵省主税局長の池田勇人であった。次のように書かれた看板が銀座にあらわれた。

新日本女性に告ぐ!
戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧 当方支給。

日本政府は敗戦にあたり、占領軍を迎えるにあたって「性の防波堤」として、半ば国営の売春施設を立ち上げたのである。翌8月27日には東京・大森の小町園に最初の慰安所が開場する。その日の午後1時すぎに連合軍の派遣隊第一陣が相模湾に入っていることからすれば、何という手際の良さか。8月31日からは「朝日新聞」をはじめとした新聞にも求人広告が掲載された。
むろん「売春」は強制ではなかった。ただし、『東京100年史』によれば応募した女性は「昭和の唐人お吉だ、民族の血統を守る人柱だ」と「愛国心」を刺激されて説得されたようだ。一回15円あるいは1ドルで当局の言うところの「特殊挺身隊員」のサービスは行われた。高見順は『敗戦日記』で怒りを込めて、こう書いている。

世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が――。支那ではなかった。南方でもなかった。懐柔策が巧みとされている支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、淫売婦にし、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥かしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。

日本が率先してつくったRAAの施設に日本人が入ることは許されなかった。銀座・松坂屋横の地下三階にはRAAのキャバレー「Oasis of Ginza」があった。高見はアメリカ兵とともに地下三階に降りると、そこで目にしたのは「連合国軍隊ニ限ル」という貼紙であった。占領されているのだから、日本人の行動を制限されることはあるだろうが、日本人自らが日本人を排除する貼紙を掲げて平気でいられることに高見は慨嘆しているのだ。日本が占領した中国では中国人自らが中国人女性を集めて日本人の性処理に当たらせるようなことはなかった。しかし、アメリカが占領した「祖国」日本では日本人自らが日本女性を集めてアメリカの兵士の性処理に当たらせたのである。そこに日本人としての誇りはあるのかと高見は憤っているのだ。しかも、このキャバレーの経営者は高見によれば「終戦前は『尊皇攘夷』を唱えていた右翼結社」であったのである。そうも人は簡単に「攘夷」の志を折れるものなのか。占領軍が上陸してからでも「占領」に対する武器を手にしての抵抗は可能であったはずだが、日本人はそうしなかった。右も不能であれば左も不能であった。日本共産党は占領軍を解放軍と錯覚して恥じなかった。
昭和21年1月21日、性病の蔓延に手を焼いたGHQ公娼制度は民主主義に反し、また人権上も許せないという理由から「日本における公娼廃止に関する覚書」(廃娼令)を発する。3月10日には米軍将校にRAAの立ち入りを禁止する。かくしてRAAの「慰安所」としての歴史は幕を閉じることになる。占領軍相手の慰安所は日本政府の肝煎りで作られ、占領軍によって閉じられたのである。もっとも廃娼令によって売春が消えなかったのは周知の事実である。「赤線」は廃娼令によって誕生するのである。「特殊飲食店」と「住み込み従業員」という形で「赤線」地帯が生まれる。
一方、夜の繁華街には髪の毛をネッカチーフで包み、赤いルージュを引き、フレアスカートにエナメルのハイヒールというファッションの街娼があふれる。彼女たちは周囲からパンパンと蔑まれ、またそう自虐した。
「こんな女に誰がした」
戦争がなければ、違った人生の選択もあったに違いない。戦争が父親や夫を奪い、金銭と食べ物を得るには自らの肉体を商品として売るしかなかった。そんな彼女たちを日本という国家は「性の防波堤」として利用し、占領軍の指示で捨て去る。戦争がサンフランシスコ講和条約をもって終結したのだとしたならば、彼女たちこそ本土決戦を戦った唯一の「皇軍兵士」であったのではあるまいか。
菊池章子の歌う『星の流れに』は、そうした女性たちのそうして生きるしかなかった心情をやるせなく歌いあげる。歌詞に戦争という言葉もなければ、平和という言葉もない。だからこそ理屈ではなく、心情をもって戦争を告発するのだ。私は『星の流れに』に匹敵する反戦歌を知らない。

彼女彼女の戦争によって可能性を奪われた人生は敗戦によって星の流れに身を占わざるをえない局面にまで転落させられたのである。戻るべき故郷もなければ、戻るべき家族もなく、しかし、生きるためには夜の街に立つしかなかったのである。自らの「性」を売ることで自らのねぐらを確保するしかなかったのである。泣き過ぎて流れるべき涙さえ涸れてしまったという戦争と敗戦によってもたらされた悲劇の只中にあって、心が荒まないはずはないけれど、そんな心さえ否定するしか生きる術はなかったのである。ともかく今日を生きることに精一杯であり、未来は全く当もない彼女の「こんな女に誰がした」という囁きは、戦争に対する憎悪を込めた叫びだったはずである。『星の流れに』は民衆の戦争に対する「恨歌」なのである。
作詞は清水みのるである。戦争中は作曲家の倉若晴生、歌手の田端義夫のトリオを組んで、『島の舟歌』『別れ船』『かえり船』を作詞している。『別れ船』は昭和15年の作品であり、出征兵士を送る歌であるが、決して勇壮でも、戦意を鼓舞するような歌詞ではない。むしろ、厭戦気分を掻き立てるような歌詞である。夢は潮路に捨ててゆく、のである。

作曲は利根一郎。小畑実の『星影の小径』(昭和25年)、宮城まり子の『ガード下の靴みがき』(昭和30年)、橋幸夫の『霧氷』(昭和41年)が代表作であろうか。
菊池章子は『岸壁の母』(昭和29年)でミリオンセラーを記録している。『岸壁の母』は戦後なおソ連に抑留された息子の帰りをナホトカ港からの引揚船が入港するたびに舞鶴の岸壁に立って待つ実在の女性をモデルにした歌である。菊池は戦争によって犠牲を強いられ人生を狂わされた女性を歌い続けることによって、『昭和の母』としての役割を果たした歌手であった。