「戦前」は「戦争」に対する想像力を欠如させる

「戦後」という言葉がリアリティを失い、使われなくなるということは何を意味するのか。恐らく、時代は「戦前」に足を踏み入れているのだ。しかし、「戦前」という言葉もまた「戦後」と同じくらいリアリティを持っていない。「戦前」という言葉がリアリティを獲得するのは、「戦争」が現実のものとなってからだ。実際に「戦争」が始まってみて、人は「戦前」を生きていたことを知る。事後的に痛感する。その渦中において「戦前」は「戦後」と違って実感がともなわないのである。「戦後」には「戦争」の記憶が間違った解釈も含めてこびりついているが、「戦前」が最も欠くのは来るべき「戦争」に対する想像力なのである。凡庸なる平和に耐えているのが「戦前」なのである。「戦争」に対する想像力を欠如させているということは、同時に平和に対するリアリティの欠如させているということにほかなるまい。人はその平和のあまりの凡庸さにひたすら欲求不満を溜め込み、やがて「戦争」に対する想像力を欠いたまま「戦争」を待望する。「戦前」という時代区分が「戦争」によって確定した後になるのだろうが、首相の野田佳彦は「戦争」に対する想像力を決定的に欠如させたまま新たな「戦争」を準備した「戦前」に典型的な政治家の一人として歴史に名前を刻むに違いない。
野田佳彦の指示で昨年末に設置された「フロンティア分科会」(座長・大西隆東京大教授)が現在の憲法9条の解釈では禁じている集団的自衛権の行使について「集団的自衛権に関する解釈など旧来の制度慣行を見直すことも検討されるべきだ」とする提言を「あらゆる力を発露し 創造的結合で新たな価値を生み出す 『共創の国』づくり」としてまとめ、野田佳彦首相に提出した。そこにこうあったのである。

アジア太平洋地域の戦略環境の厳しさを考えれば、日本が自衛手段として一定の安全保障能力を保持することはきわめて重要。価値観を共有する諸国との安全保障協力を大幅に拡大深化させ、ネットワーク化させるべく、集団的自衛権に関する解釈など旧来の制度慣行の見直し等を通じて、安全保障協力手段の拡充を図るべき。

野田は、この報告書を踏まえたうえで衆院予算委員会においては消費増税と同様にまたしても自民党に擦り寄る見解を述べる。朝日新聞から引用しておこう。

野田佳彦首相は12日の衆院予算委員会で、自民党がまとめた国家安全保障基本法案に関して「集団的自衛権の一部を必要最小限度の自衛権に含むというのは一つの考えだ」と評価した。集団的自衛権の行使は政府の憲法解釈で禁じられているが、自衛権の対象を広げて行使を認める考え方にも理解を示したものだ。
自民党茂木敏充氏の質問に答えた。集団的自衛権について、首相は「現時点ではいまの(憲法)解釈でやる」と述べたうえで、野田政権の有識者会議が憲法解釈の見直しを提言したことに触れ、「自民党の考えもある。国会でいい議論ができれば」と語った。

「戦争」に対する想像力を摩滅してはならないと痛感するのは、こういうときである。実際の報告書や新聞の報道を読んでいると、私たちは「集団的自衛権」を一切、認めてこなかったかのような錯覚を持ってしまうが、これは違うということを私はまず言っておきたい。そんなことはないのである。日米安保(日米安全保障条約)は第五条において「集団的自衛権」を次のように認めている。

各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。

日米安保は「日本国の施政の下にある領域」においてのみ「集団的自衛権」を認めているのである。とすれば野田佳彦たちが考える「集団的自衛権」にかかわる旧来の解釈の見直しとは「日本国の施政の下にある領域」以外での「集団的自衛権」の行使であり、野田はこれに前向きなのだ。そして、「日本国の施政の下にある領域」以外での「集団的自衛権」の行使となれば「自衛権」を超えることになる。日本の安全と縁もゆかりもない「戦争」を可能にしようというわけである。しかし、日本の自衛隊という軍隊は、日米安保の拘束によって存在してきたこともあって、軍隊としての自律性を欠いている。アメリカ抜きには軍隊として自立できないとさえいえるだろう。主権国家の擁する軍隊としては相当歪んでいるのである。憲法9条の縛りによって、そうなったのではない。日米安保によって、そうなったのである。
つまり、現状の自衛隊において「日本国の施政の下にある領域」以外での「集団的自衛権」の行使を想定するのであれば、孫崎享がツイートで指摘していたように「自衛隊が米国の犬になる」ことであり、自衛隊は「米国の犬」として世界のあちらこちらで汗をかかされるということだ。むろん、自らの血を流す覚悟でのことである。日米安保の評価は取り敢えず置くとして、この条約において「集団的自衛権」の行使を「日本国の施政の下にある領域」に限ったのは、当時の保守政治家たちの知恵であり、アメリカに対するささやかな抵抗でもあったのだ。孫崎は次のようにツイートしている。

1960年安保条約作成時は外務官僚や政治家は日本の領域外で「自衛隊が米国の犬になる」ことを避けるに必死で条文を作った。米国の犬になることを本分とする人間が今日本で跋扈する。これらが「安保村」を作り従米。「原子力村」と同じ構図。 7月7日

防衛大臣オスプレイの配備問題でアメリカの代理人のような役回りをつとめるのも当然のことなのである。いずれにしても、来るべき「戦争」に向けて準備を始めるからこそ「戦前」なのである。しかし、本格的な「戦争」が私たちの眼前に姿を現すのは、国家が備える「戦争」ではなく、民衆が待望する「戦争」に国家が備える「戦争」が合流したときのことであろう。いずれにしても、「戦争」に鈍感であるということは「平和」に鈍感であるということなのである。「平和」に敏感であるということは「戦争」に鈍感であるということではないのである。「戦争」に想像力を働かせることが「戦前」という時代に対する抵抗の始まりなのである。憲法九条?あれは爆笑問題ではないが世界遺産に登録しておけば、それでよろしかろうよ。