何故に「よろず評判屋」なのかといえば― 竹中労について

左右ヲ弁別スベカラズ。
左翼・右翼に偏見を持たないということだ。
そう竹中労は喝破した。
浪漫主義に加担しても、イロニーに堕落しない自由な精神は左右を「差別」しない、行動の論理において、前を向く、見下さない。
行為に自由あれ、動機にも自由あれ。
竹中労の左からの直接行動の軌跡は一九五二年五月三十日の淀橋警察署焼き打ち事件をはじめ逮捕歴十一回を数える武闘とマスコミに文章を発表する作業は「可能な限りの領域で活字の暴力を行使すること」と言い切った文闘の複合体として刻まれていったが、その無頼の果てに辿り着く。左翼・右翼を弁別しないのだと。
そもそも右翼に理論がなく、左翼に理論がないと考えることが間違っているのだ。左翼の理論はマルクス・レーニン主義にしてから、直輸入の舶来品。左翼でユニークな理論と言えるのは大杉栄石川三四郎といったアナキストにしか見当たらない、右翼のほうにはるかにユニークな理論があると竹中は言う。その視線の先に例えば里見岸雄がいる。
里見は昭和四年に上梓した『天皇とプロレタリア』で主張している。国体は天皇であり、政体が資本主義なのである。国体を護持しつつ、政体を社会主義に変えることは可能であると。「大杉栄は、私である!」とゴチック体で書くに及んだ竹中によれば、大杉の論文「日本の運命」は大杉が北一輝に近接した思想を持っていたことを実証しているのではないかと。大杉は革命の資金を頭山満経由、「百魔」の杉山茂丸の斡旋で後藤新平から引き出す。大杉もまた左右を弁別しなかった可能性は高い。大杉や竹中は「偏見」から自由であった。まず、その人を見よ。人は人以上ではない。イデオロギーは所詮、人以下である。
竹中の場合、反体制・反権力の「義侠」に生きるべくイデオロギーなる集団の、徒党の論理に立脚することをどこまでも拒む。すべては「理解」ではなく、「理会」することから始まる。出会いなくして理解なし、である。「理会」は竹中の造語。竹中は「窮民」の側に立った。竹中は桃源を求める奔放の志に一貫し、過程に奮迅する叛逆の、風のような「旅人」であった。
だから、決して群れない。けれども出会いを恐れない。孤立を求めて連帯を恐れず。竹中はエライ人を嫌った。エライ人は竹中を恐れた。多数決に生きない覚悟が酔狂に走らせ、情熱の言葉を、時には肉体言語として紡ぎだす。竹中は「よろず評判家」を名乗った。だとすれば私が「家」を名乗るのは失礼極まりない話である。せいぜいが「屋」であろう。かくして私は「よろず評判屋」を自称し、ブログでよろず評判を始めたという次第である。