与太話

編集者にプロフェッショナリズムが求められているのは言うまでもあるまい。そうであるとすれば、編集者に何よりも問われなければならないのはアマチュアリズムであると私は断言したい。
しかし、現実はどうか。得てして編集者は、プロフェッショナリズムに行ったきりになっていはしないか。作ることにおいてプロフェッショナルであっても、そうして作られたものは創造力を欠如してしまっている。作品としても、商品としても中途半端なものをつくって得意がっている。名刺に「編集」という二文字か刷り込まれているだけのプロフェッショナリズムに陶酔してしまっているということだ。
特に雑誌は酷い。身近にある雑誌のページを捲っていればわかることである。アマチャアリズムに戻って来る道筋を編集者自らが断っているとしか思えないような特権性に依拠した記事を誌面に発見することはいとも簡単である。アマチュアリズムの本質は読むことである、読み続けることである、妄想することである。そこが編集者にとって創造力の母胎になるべき場所である。肩書に胸を張る必要はないし、格好をつける必要もない。もともと編集者など世間様からすれば恥ずかしい存在なのである。
絶えずアマチュアリズムに戻ってくる覚悟とその実践なくして編集という職業においてプロフェッショナリズムはあり得ないのだということを自明の理としない限り、編集者は「個」として自立できないはずである。
「名刺」に己が自由を拘束され、「組織」に埋もれてしまうような編集者ごときは真のプロフェッショナリズムとは無縁なままに定年を迎えるのだろう。私は極論を述べているのではない。単に編集者という職業における常識を確認したいだけの話である。逆説ではなしに編集者とは何事においてもプロフェッショナルでないことにおいてプロフェッショナルな存在であるべきなのだ。