小沢無罪判決と新聞 「政治とカネ」という常套句による思考停止

何も言っていないにもかかわらず何か言っているかのように錯覚させてしまう。それどころか議論や対話の可能性を遮断するために駆使されているとしか私には思えない。その発言者のみならず周囲まで巻き込んで思考停止に導くような常套句がメディアを闊歩している。原発について語るのに脱や反を冠に戴く連中が好んで使う「御用学者」や「原子力ムラ」がそうだ。もともと「原子力ムラ」は関沼博の労作『「フクシマ」論』から生まれた言葉であり、関沼は原発問題で思考停止しないために「原子力ムラ」という言葉を紡ぎ出したわけだが、関沼の問題意識からは遠く離れて、原発問題で思考停止するに際して使われるようになってしまった。「政治とカネ」もそうした常套句のひとつである。しかも、必ずと言って良いほど小沢一郎という政治家を標的にして「政治とカネ」という言葉は投げつけられてきた。

小沢氏は法廷で、自分の関心は天下国家であり、収支報告書を見たことはないし、見る必要もないと言い切った。
これに対し私たちは、政治とカネが問題になって久しいのにそんな認識でいること自体、政治家失格だと指摘した。判決「法の精神に照らして芳しいことではない」と述べている。
まさに小沢氏の政治責任が問われている。何と答えるのか。無罪判決が出たのだからもういいだろう、では通らない。

これは朝日新聞の4月27日付社説「小沢氏無罪判決―政治的けじめ、どうつける」のなかの一節である。東京地裁は4月26日の判決で「陸山会」の土地購入をめぐり政治資金規正法違反で強制起訴されていた小沢一郎を無罪としたが、これについて論じた社説である。同日付の読売新聞の社説「小沢氏無罪 復権の前にやることがある」は「結論はシロだが、『潔白』ではなく『灰色』という司法判断だろう」という一文をもって始まるが、ここでも「政治とカネ」が使われている。

野党は一斉に、小沢氏が国会で政治とカネの問題に関して説明することを要求している。
小沢氏は一時、衆院政治倫理審査会への出席を表明したが、「予算審議を促進するなら」との身勝手な条件や「三権分立」を持ち出し、説明責任から逃げている。まず国会での説明が欠かせない。

小沢一郎の無罪判決に関しては一面や、政治面、社説ばかりではなく、社会面でも大きく取り上げられているが、ここでも「政治とカネ」という常套句が使われた。次に紹介するのは4月27日付毎日新聞の社会面に掲載された記事の冒頭の一節である。

この日の判決を受け、市民には歓迎や疑問の声が交錯した。特に小沢元代表を巡る「政治とカネ」の問題については、徹底解明を求める意見が根強い。

「政治とカネ」という常套句は様々な意味を示唆する。ひとつは「政治にはカネがかかる」「政治には大きなカネが動く」という意味であり、ひとつは「政治は不正なカネで動く」という意味であり、ひとつは「政治はカネになる」という意味であろう。この言葉が使われる文脈において、意味の重心が移動する。陸山会事件というのは、小沢一郎個人から資金管理団体陸山会」に土地購入代金としてわたった4億円が記載されず、銀行から融資されていた4億円しか記載されていなかったことに端を発する。しかし、4億円もの大金が政治家と資金管理団体の間で動いたことについて「政治にはカネがかかる」「政治には大きなカネが動く」という「政治とカネ」の意味だけに収斂していくことはなかった。
その4億円の内実に東京地検特捜部が疑惑の目を向け、新聞やテレビというマスメディアもそれに乗ってしまったのである。小沢一郎に投げつけられた「政治とカネ」という常套句は「政治は不正なカネで動く」という意味や「政治はカネになる」という意味の強度を圧倒的に強めていった。その4億円にはゼネコンからの裏金が含まれている。いくら小沢一郎がそれは著書の印税などによるタンス貯金であったと説明しても(政治にはカネがかかるのだという意味での「政治とカネ」の問題について小沢一郎が嫌というほど説明しても)、それがゼネコンからの裏金でない限り納得できないという、言わば「マッカーシズム」に比肩する空気を検察とマスメディアが合作して作り上げてしまったのである。そう、記者クラブを介してマスメディアと検察という最も政治のコントロールから自立している官僚権力が共犯関係を切り結び「政治とカネ」という問題をでっちあげることで思考を停止してしまい判断停止に陥っててしまったのである。
東京地検特捜部がいくら調べても、4億円に裏金が含まれているという事実は一切、出て来なかったため東京地検は起訴を断念する。本来であれば、「陸山会」事件はここで終止符が打たれることになるのだが、この不起訴が適正であるかどうかを市民の代表によって判定する検察審査会が強制起訴することによって、「政治とカネ」という常套句も蘇生してしまうのだ。というよりも、小沢一郎がゼネコンから不正なカネを受け取り、そのことによって小沢一郎が政治を動かしゼネコンの利益を実現するということを恒常的に繰り返し、小沢一郎が政治をカネにしていたたことを認めない限り、小沢一郎の「政治とカネ」の問題は永久に解決されないというところまで、「政治とカネ」という常套句による思考停止は腐敗してしまうのだ。しかも、そのことによって政治もジャーナリズムも腐敗しかねないことを当事者はあまりに無自覚なのだ。新聞やテレビが小沢一郎に「政治とカネ」という常套句を投げ続ける限り、その「政治とカネ」という言葉によって腐敗するのはジャーナリズムであり、政治なのである。その意味で小沢一郎の法廷での次のような証言は読まれるべきであろう。

日本は戦前、行政官僚、軍部官僚・警察検察官僚が結託し、財界、マスコミを巻き込んで、国家権力を乱用し、政党政治を破壊しました。その結果は、無謀な戦争への突入と悲惨な敗戦という悲劇でありました。昭和史の教訓を忘れて今のような権力の乱用を許すならば、日本は必ず同様の過ちを繰り返すに違いありません

こうした小沢の証言に沿って考えるのであれば、「陸山会」事件で問われているのは検察権力の暴走にほかならない。東京地検特捜部の検事は実際にはなかったやり取りまでも掲載するという報告書の捏造までもしているのだ。これはレッキとした犯罪ではないのか。しかし、全国紙の社説は、このことには申し訳程度にしか触れていなかった。しかも、揃いも揃って検察に「猛省」を促すのみである。「検察は猛省し謝罪を」(朝日新聞)、「検察は捜査の猛省を」(讀賣新聞)、「元秘書の供述調書の大半が『組織的に違法な取り調べが行われた』として証拠採用されなかったことを含め、検察は猛省すべきだ」(毎日新聞)、「大阪地検特捜部の郵便不正事件と合わせ、検察当局には猛省を求めたい」(産経新聞)という具合である。これでは「報道談合」があったと疑われても仕方あるまい。「政治とカネ」という常套句が「陸山会」事件の本質を隠蔽してしまっていることは間違いあるまい。新聞の思考停止がもたらした隠蔽である。そうしたなかにあって異色だったのは地方紙である琉球新報の4月27日付社説「小沢判決/検察の『闇』が裁かれた 全面可視化しか道はない」であった。「この裁判の最も重要な瞬間は、小沢氏の弁論などではなく、むしろ田代政弘検事の証人尋問だった。昨年12月の公判で田代検事は、事実と異なる捜査報告書の作成を認めたのだ」とする琉球新報にあっては小沢判決が無罪になることによって裁かれたのは検察であると琉球新報は断定したのである。

裁かれたのは検察の深い闇だ。そう受け止めざるを得ない。政治資金規正法違反罪で強制起訴された小沢一郎民主党元代表への判決で、東京地裁は無罪を言い渡し、検察の手法を厳しく批判した。
供述を検察が「ねつ造」したことが明らかになったからだ。大阪地検の証拠改ざんもあった。断罪されたのは検察の体質そのものと言える。もはや検察の調書は信頼できない。取り調べを全面可視化するほか信頼回復の道はない、と法務当局は認識すべきだ。
今回、「ねつ造」された供述はそのまま検察審査会に送られ、強制起訴の根拠になった。検察審査会の在り方も議論すべきだろう。

琉球新報が「政治とカネ」という常套句による思考停止を免れたのは「小さな新聞」であったからにほかなるまい。いずれにして、「政治とカネ」という常套句の「政治」を「報道」と置き換えれば、次のような思考停止が可能になることに「大きな新聞」は震撼すべきである。

週刊誌や一部の新聞が報じるところによれば、日本を代表する大新聞に4800万円の所得隠し、2億円超の申告漏れがあったという。「報道とカネ」の問題の氷山の一角が明らかになったが、大新聞はジャーナリズムとして説明責任を果たすべきである。