断片の昭和史(16)帝銀事件

西武池袋線椎名町から長崎神社を目指して八十メートルほど歩く。現在は不動産屋が営業しているあたりに帝国銀行椎名町店はあった。質屋の店舗を改造した木造の小さな支店。当時の住所は豊島区長崎町一−三三番地。事件は一九四八年(昭和二十三年)一月二十六日に起こった。
支店長は腹痛のため早退していた。午後からは支店長代理の吉田武次郎(当時四十四歳)が店舗を預かっていた。いまだ敗戦の傷は癒えていない時期。二十一名中七人が欠勤。買出しのために休まざるを得なかったのだろう。閉店の午後三時になり行員は残務整理に取りかかる。五分ほどが経っただろうか。中年の男が横のくぐり戸を開けて入ってくる。茶色のコート。赤いゴム靴。左腕には東京都のマークが入った腕章。そこには黒い文字で「防毒消毒員」と書かれている。男は「支店長は?」と声を出した。吉田支店長代理は支店長の不在を告げ男を事務室に招き入れる。男は名刺を差し出して落ち着いた口調で用件を切り出す。「長崎二丁目の相田小太郎という家の前の井戸を使用しているところより四名の集団赤痢が発生した。警察にも届けられたが、GHQのホートク中尉に報告され、それは大変だ、直ぐに行くから、お前がひと足先に行けと言われて来た。調べてみるとその家に同居している人が今日、この銀行へ来ていることがわかった。ホートク中尉は後より消毒班を指揮してくることになっている。その消毒をする前に予防薬を飲んでもらうことになった」
吉田支店長代理は言う。随分と早く分かりましたね。男は動ずることなく応じる。診断した医師よりGHQに直接報告されたと。男は医師が使う金属製のケースを取り出しながら、もうすぐ本隊が到着するから、その前にこの薬を飲んでもらう。この薬はGHQより出たもので強いが非常に良く効く薬だ。行内に緊張感が走る。給仕が湯飲みを洗って持ってくる。男の周りに行員十四人とその家族二人が集まる。一人は八歳の子供。男は百二十CC入りの小瓶を取り出し、二CCが入るスポイドで、その中の液体を二回に分けて量り分配する。男は薬の飲み方を機械的に説明して、薬を飲んでみせる。「この薬は歯に触れるとホーロー質を損傷するので私が薬の飲み方を教えますから、私がやるようにしてください。薬は二種類あって最初の薬を飲んだ後、一分くらいして第二の薬を飲む」
行内にいた十六人は、何の疑いも持たず、男に従って第一薬を飲み干す。そのとたん、のどや胸が焼けた。苦しい。一分間耐えた後に第二薬を分配してもらって飲む。誰かがうがいをしてもいいかと男に聞く。いいという答え。行員たちは台所や風呂場に急ぐ。そこここで、のたうち回る行員たち。吉田支店長代理はうがいを済ませ席に戻ったところで気を失う。男はすでにいなかった。現金十六万円と額面一万七千余円の小切手も消えた。十人がその場で絶命する。行員の村田正子は死力をふりしぼって裏木戸を開け救済を求める。六人は病院に担ぎ込まれたものの二人が死亡。結局十二人が死亡、四人が生き残る。法医学的な解剖によって毒薬は青酸化合物であった。
一九四八年(昭和二十三年)一月二十七日、警視庁は合同捜査本部を設置。翌二十八日には、全く同じ手口でも未遂事件が安田銀行荏原支店と三菱銀行中井支店で起きていたことが判明。犯人は予行演習をしたうえで本番に挑んだのである。作家の坂口安吾は十六人がバタバタ倒れていくなか、冷然とそれを見ていた犯人に゛戦前の匂い゛を感じ取る。「私は帝銀事件の犯人に、なお戦争という麻薬の悪夢の中に住む無感動な平凡人を考える。戦争という悪夢がなければ、おそらく罪を犯さずに平凡に一生を終わった、きわめて普通の目立たない男について考える」と「帝銀事件を論ず」(『中央公論』昭和二十三年三月号)のなかで書いている。「すべてそこに漂うものは、戦争の匂い」であった。
警視庁捜査二課の成智英雄は毒物の扱いに通じた手口から、ハルピン市郊外に拠点を置いて細菌兵器の開発を進めていた七三一部隊の関係者に絞り込んで捜査を進めた。そこで浮かび上がってきたのはS軍医中佐(当時五十一歳)。S中佐はスマートで紳士風の身長約一五九センチ。面長で色白、顔にシミがあり頭髪は白髪まじりの丸刈り帝銀事件の生き残り証人や未遂事件の目撃者の証言から作成されたモンタージュ写真はS中佐に酷似していた。ところが七カ月後にGHQの圧力もあって捜査方針が大転換し、八月二十一日に画家の平沢貞通(当時五十六歳)が逮捕されてしまう。平沢は根も葉もないことを平気で喋ってしまうコルサコフ病であったこともあり、逮捕の一カ月後に自白してしまうが、第一回公判から自白を翻し、一貫して無実を訴え続けるものの帝銀事件は旧刑事訴訟法による最後の事件となり、自白は証拠として採用され、東京地裁の判決は死刑。控訴審も同様に死刑。最高裁は書面審理のみで上告棄却。しかし、死刑確定の一九五五年から三十二年間にわたって、歴代の法務大臣は誰一人として死刑執行命令書に署名することはできなかった。平沢貞通は一九八七年五月に八王子医療刑務所で九十五歳の生涯を閉じる。S中佐は昭和二十四年に死亡したことが確認されている。