歴史ルポ⑤吉原・浅草漫遊録 落語『付き馬』の世界

ここは聖天さん。待乳山聖天です。浅草寺一山のひとつで正式には本龍院と言うんだそうです。境内のあちらこちらには大根と巾着が印されていて、参拝者は大根を供えます。何でも大根は身体を丈夫にして、良縁成就、夫婦仲良く末永く一家の和合をご加護いただける功徳を表し、巾着は財宝で商売繁盛を表すとのことですが、吉原を目指すとなると、ついついスケベェな妄想を働かせてしまいます。何てぇたって二股大根をお供えするんですから。しかし、こうしたスケベェな妄想を働かすこと、的外れとはあながち言えないはずです。そもそも聖天さんてぇのは十一面観音を本地仏とする大聖歓喜天に他ならず、象頭人身の男神と女神の二体が向き合って抱擁している「異形」の本尊なのである。だから「聖天は娘の拝む神でなし」と詠まれてもいるし、花柳界の信仰も厚いのである。日本の神様仏様は性に寛容というよりも、積極的に性の快楽に身をさらすことで「涅槃」の境地を実践してらっしゃる。真言宗で読誦される理趣経の「妙適」という概念にしても、要するに男で言えば射精時のエクスタシーと了解するほうが理解しやすい。そういう意味では真言密教にとって立川流が異端なのではなく、むしろ立川流こそ正統であったと考えるべきなのかもしれない。おっと、今日はそんな難しいことを考えにわざわざ浅草にやってきたのではない。
あっしらは地下鉄で浅草駅を降りて、馬道通りを歩いて聖天さんに出たわけですが、馬道通りの謂われを落語的知識によって申し上げるのであれば、雷門近辺の松並木で馬子さんが吉原に遊びに出かける客に「どうだお客さま、馬ぁやんべえけえ」と声をかけ、そこから馬に乗せて吉原に運んだことから馬道という名前が残ったということになるわけですが、これはあくまで落語の世界でのこと。馬道という名称は吉原遊郭が誕生する前からあったのだから。いずれにしても、『付き馬』の語源も、この馬子に遡る。登楼したのはいいけれど、派手に遊んで翌朝、勘定の段になり、金が足らなくなるってぇと、どうなるかといえば、大門で待機している馬子に頼んで客を再び馬に乗せて客の家まで集金に行かせたところから『付き馬』という言葉が生まれる。つまり、遊廓で借金をすると馬が付いてくるというわけ。やがて、馬ではなく郭で働く若い衆が『付き馬』の役割をするようになったということに落語ではなっている。もっとも、遊興費の不足や不払いを取り立てる役割を「馬」と呼んだのは歴史的にも間違いないようである。『東海道中膝栗毛』にも「馬をつれてかへりさへすりやア、いくらでも貸してよこしやす」という記述がちゃんとあるのである。
山谷堀公園をてくてく歩いてゆけば吉原です。昔は吉原に遊びに行くことを山谷通いと言いましたけれど、両岸に多くの船宿や茶屋の並ぶ山谷堀を猪牙船で吉原に行くのが伊達とか粋と言われたもんです。『柳花通誌』には、こうあります。
「其比は二挺立三挺立とて、猪牙船に多く戸を立て、急げる客は船頭に祝儀とらして、鼻紙を取出し火縄箱の上に置て、川風に吹散る景色を伊達とすといへり」
猪牙船は艪が多く早やければ早いほど喜ばれたわけです。もっとも艪の多い猪牙船は正徳三年(1713)に禁止されます。実は吉原に馬で行くことも寛文元年(1661)に禁止されています。ただし、なかなか守られなかったらしく、馬の姿が消えるのは元禄の中頃になってからのことだそうです。陸から行く場合は駕籠となります。
「川はふね、陸の駕籠の声、昼夜やむ時なし」(『吉原大全』)
山谷堀は昭和五十年(1975)から昭和五十三年にかけて総てが埋め立てられて、現在のような山谷堀公園となりました。細長い桜並木となっている山谷堀公園をゆっくりと吉原を目指します。何をしに行くかって?そんなの決まっているでしょう。やるこたぁひとつです、ハイ。聖天橋、今戸橋、吉野橋、正法寺橋、山谷堀橋と進んで行きます。橋と言っても橋柱が残っているだけです。これらの橋柱は関東大震災後の帝都復興作業によって昭和四年九月に竣工整備した際のものです。
紙洗橋です。江戸という都市は消費都市に他なりませんでした。生活必要物資は上方などから船で運んでいました。そんな江戸にあって数少ない名産品のひとつとして浅草紙があります。この紙洗橋辺りで浅草紙はつくられていました。浅草紙は今で言う再生紙に他なりません。江戸市中から集めた屑紙を山谷堀にさらし、紙の繊維を解きほぐし、墨を洗い流すことから紙洗橋というわけです。こうして処理したものを今度は煮て紙料にするわけですが、紙漉職人は、これが冷えるまでちょいと吉原の遊女たちを見物に出かけたことから「冷やかし」という言葉が生まれたと『嬉遊笑覧』にはあります。噺家は「やかし」と発音しますが、『付き馬』は一文無しの「冷やかし」として吉原にやって来た男が妓夫を巧みな話術でまんまと騙して遊んでしまうという一席です。妓夫の側から言えば妓夫=牛が馬となり、その馬が馬を付けられるという、ちょっと情けない噺ということになります。そうそう浅草紙ですが、五十代以上の方はご記憶にあると思いますが、トイレットペーパーなるものが普及する以前、汲み取り式の便所時代に使っていた、あの黒ずんだ「落とし紙」のことです。
吉原大門の交差点に出ました。ガソリンスタンドの横に見返り柳があります。吉原遊廓の名所のひとつで京都の島原遊廓の門口の柳を模したものだそうです。
きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
という川柳にもあるように遊び帰りの客が後ろ髪をひかれる思いで、この柳のあたりで遊廓を振り返ったということから見返り柳と言いました。といったような内容の看板が台東区教育委員会名義で建てられているわけです。もともと山谷堀脇の土手にあったのですが、道路や区画の整理に伴い現在の場所に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたって植え替えられたともあります。もちろん、大門も地名として残っているだけで、実際の門はありません。ここから吉原のメインストリート仲之町に入ります。江戸における幕府公認唯一の遊廓を吉原と言いました。最初は元和元年(1618)に現在の日本橋人形町に創設されましたが、明暦三年(1657)に浅草日本堤、現在の千束四丁目に移されました。南北が京間で一三五間、東西一八〇間、総坪数二万七六七坪の吉原への出入口は一ヶ所に限られ、そこに京都の島原遊廓を擬した大門が構えらました。
つまり、幕府は一般の町屋と区別するため周囲に堀をめぐらし、おはぐろどぶが掘って隔離したのである。かくて吉原は仁義礼智信忠孝悌の八文字を忘却させる「忘八」の悪所として繁栄することになる。その濃密な閉鎖性を媒介にして様々な文化や芸能が発酵されることになる。落語はそうした吉原文化の嫡子とも言える。
右っ側に交番が見えます。実はこの交番が大門跡で、引き手茶屋の松葉屋があったんですな。花魁ショーを長らくやっていたんで知られてますよね。更に仲之町を進みます。当然のことながら、ソープランドの看板が次々に目に入って来ます。現在は一五〇軒くらいあるんでしょうか。昭和のはじめの頃までは引手茶屋が四十五軒、貸座敷が二百九十五軒、紅唇の娼妓が三千五百六十人働いていたって言われていたんですけどね。左側にビジネスホテル稲本が見えます。稲本もかつての大店の名前でね。何でも角海老楼、稲本楼、大文字楼、不二楼の大店四軒は馴染み以外のふりの客は引き手茶屋を通さなければ揚げなかったと言ったくらいです。
では、ここで一席。『付き馬』でも楽しんで下さいな。
妓夫がいかがさまでございますかと声をかけます。頭のてっぺんから爪先まで服装はしっかりしています。長年、手練手管の聖地たる吉原で経験を積んでいると、一目でこれはどういう客かがわかるようになります。この男、海千山千の妓夫のお眼鏡にかなったというわけです。ところが男は右手を横に振ります。金がないからだめだよ。妓夫が食い下がります。ご冗談を。是非ご愉快を願いたいもので。それでも男は断ります。あたしだっての晩に大門をくぐったわけじゃなし、そういう世話を焼かれて厄介になろうぐらいのことは言いたいんだが、銭がない。で、男は金がない理由を話す。叔父さんが仲之町のお茶屋さんにだいぶお金を貸していて、これを取り立ててくれと頼まれたんだ。この理由を聞いて妓夫は良い客だと判断して翌朝、取り立てた金で勘定するという約束で遂に登楼させてしまう。男からすれば承りだよというわけです。さあ、見事な「完全犯罪」のお膳立てが整いました。要は詐欺の噺なんです、『付き馬』は。ただし、騙されるのもまた客を騙すことには慣れている妓夫と呼ばれる遊廓の「若い衆」なのです。田舎者を騙すわけではないのです。
男は遠慮なしに芸者を呼んでのどんちゃん騒ぎ。お引けになって翌朝。妓夫が勘定書を持って来ます。馬鹿安だねぇ。安すぎる、タダみたいなもんですよ。これからもちょいちょい厄介になるよと男は褒めちぎります。の約束では君に手紙を持っててってもらって集金に行ってもらうつもりだったんだけど、ハンを忘れてしまってね。あたしが顔を出せば否も応もないんだから、ひとつ一緒に行ってもらえないかね。ここで牛が馬になるわけです。男はまず妓楼から脱出することに成功するのです。歩きながら男は言います。朝が早すぎるねぇ、いくら貸してある金でも寝込みを踏み込んで、起きてすぐに金を出してくれという仕事はしたくないじゃないか。てんで大門を出てしまう。
馬と男の浅草を巡る珍道中がここから始まります。
叔母さんがいて、五十や百のことはいつだって融通してくれるんだからと、土手を通って右へきれる田町で朝お湯に入らないと、なんかこう体がしまらないような心持がすると言っては朝湯につかり、腹がへったと言っては湯豆腐で一杯やり、勘定は馬に押しつける。馬は焦り、戸惑います。勘定って、持ち合わせがないんでございます。男は動じません。おいおい、こんな飲み屋で恥をかかせてどうしようてんだよ。さっき湯銭を立て替えるときにガマグチをあけたろう、五円のお札が一枚あったでしょ。ねえさん、いくら。五円でお釣り持って来とくれ。細かいのは君。三円、あたしが預かっておこう。
馬はお金をもらえればという一心で男と付き合っていますから、逆にどんどん騙されて行きます、ますます深みに嵌まりこんでしまいます。小里ん師匠によれば田町は花園通りと土手通りが交差する日本堤ポンプ所のある辺りだったそうです。ちょうど消防署が吉原の外れであり、おはぐろどぶは花園通りを流れていたのでしょう。あっしらも花園通りを右に折れて千束通りを経て、浅草寺を目指します。おっと落語に熱中しすぎて、やるべきことをやらずじまいにしちまいました。ま、肉弾レポートはづ海のお楽しみに。あれ、歌が聴こえてきたぞ。
「東京で繁華な浅草は/雷門 仲見世 浅草寺/鳩ポッポ 豆売るお婆さん/活動十二階 花やしき/すし おこし 牛てんぷら/ナンだと こん畜生で/おまわりさん スリに/乞食にかっぱらい/ラメチャンタラ/ギッチョンチョンデ/パイノパイノパイ/パリコトバナナデ/フライ フライフライ」(添田さつき) 
活動写真でも見るかい。それとも玉乗りの江川へ入ろうか。六区の興行街の北端です。玉乗りの江川とは浅草公園を代表する見世物の一座で大盛館という常打ちの小屋を持っていたのです。浅草六区には活動写真常設館、オペラ常設館などがシノギを削る一大歓楽街だったのです。小里ん師匠が少年の頃、六十年代の初め、日本映画の黄金時代、土日は歩けないほどの人手だったそうです。浅草は寂れたと言われるけれど六区の興行街が寂れただけなんで。仲見世は通るとわかるけど少しも寂れちゃいない。江川も活動も嫌?じゃあ、こっちに曲がりましょう。
花やしきです。花やしき千駄木の植物商・森田六三郎によって「花屋敷」として開園されたのは何と嘉永六年(1853)のことです。最初は牡丹と菊細工が名物の植物園だったそうです。わが国最古の遊園地とされる所以です。明治になると、奥山一帯とともに第五区に指定されます。明治十八年(1885)に木場の材木商・山本徳次郎が経営を引き継ぎます。この山本徳次郎は長谷川如是閑の父親です。勝海舟の「花鳥得時」を入口の看板に掲げました。やがて動物の展示を始めたり、操り人形の展示をするなどして、庶民から親しまれるようになります。日本で初めてライオンの赤ちゃんが生まれたのも花屋敷でした。男は言います。あたしゃあ、花屋敷の見世物てえのが好きだよう。動物もあるし、操り人形、いろんなものがある。中に入って象にパンでもやろうか。いやなのかい。いやならいいよ。じゃあ斜に抜けましょう。男の独壇場です。馬はただ男に付き従うだけ。
銅像があります。この人は瓜生岩子。偉いんだってねぇ。どう偉いのでしょうか。実は、あまり知られていません。『付き馬』でも全く説明されません。小里ん師匠に聞いてみると何でも明治に活躍した有名な社会事業家なんだそうです。で、ほんの少し調べてみると┉┉。瓜生岩子は日本のナイチンゲールとか社会福祉の母なんて呼ばれていることがわかりました。会津藩の出身であり、戊辰戦争の折には敵味方の区別なく負傷者の手当に奔走します。その後、喜多方に幼学校を設立して、士族の子女の教育に尽力します。四十三歳で上京して、東京深川の救養会所で児童保護、窮民救済について学び、帰郷後、福島救育所を開設して、孤児に手を差し伸べます。また有力者の援助により済世病院を若松に設けて、無料で医療を行います。六十三歳になってからのことですが、渋沢栄一の要請により東京養育院幼童世話係長もつとめています。また、第一回国会には女性として初めての請願書「婦女慈善記章の制」を提出しています。この日、瓜生岩子像の近辺では浅草槐の会が「逸品ぞろえ」なるイベントを開催しており、たいそうな賑わいを見せておりましたが、誰も瓜生岩子に見向きもしません。歴史は次々に忘れられてしまうようです。横山源之助が明治四十二年に書いた「貧民の正月」には、こうある。
「髪を綺麗(?)に結った貧民部落の男女は、正月元旦はどうして済ますか、山の手は別に趣向はあろうが、下谷、浅草、本所、深川等の貧民児童は、出てゆく先は大抵っている。花屋敷あり、活動写真あり、釣り堀あり、玉乗りある浅草公園で、げに浅草公園は府下の貧民児童を集めて、正月元旦の慰藉と歓楽とをかれら児童に与えている」
正面に浅草寺のお堂が見えます。浅草寺は東京都内で最古の寺院です。山号は金龍山。本尊が聖観音であることから観音様として親しまれています。今日も修学旅行生から外人観光客いたるまで老若男女入り乱れての大混雑。男が馬に言います。観音様のお堂、大きなもんだねぇ。十八間四面てんだ。正面の段々がいくつあるか知ってるかい。知らない?商売柄で、君ちゃんと覚えておかなくちゃあ駄目だよ。あたしも、この間田舎の人に教えてもらったんだ。正面が十一段。もうこうなると、男は完全犯罪の成就に向けて余裕しゃくしゃくです。鳩ぽっぽに豆をやっているおばあさん、みんな丈夫だねぇ。男と馬が見たお堂は慶安二年(1649)に建てられたもので近世の大型寺院本堂の代表作として国宝にも指定されていた旧堂に他なりません。関東大震災の折にも焼失を逃れたのですが、昭和二十年(1945)三月十日の東京大空襲により焼失してしまいます。現在の本堂は昭和三十三年(1958)に再建された鉄筋コンクリート造のお堂なのです。小里ん師匠とともに宝蔵門に進みます。『付き馬』の男が言います。仁王様、大きいねぇ。この人ぁ風邪を引かないねぇ。宝蔵門もまた昭和三十九年(1964)に再建された鉄筋コンクリート造です。仲見世を歩きます。人形焼に、雷おこし、揚げ饅頭とおいしそうなお菓子が並びます。雷門に出ましたねぇ。『付き馬』には右の間に風神像、左の間に雷神像を安置する雷門に係わる描写がありません。実は、雷門は慶応元年(1865)に焼失後、長らく仮設の門が建てられていただけだったのです。鉄筋コンクリート造で再建されたのは昭和三十五年になってからのことなのです。松下電器の創業者である松下幸之助の寄進です。門内にぶら下がっている大提灯は三社祭の時には畳まれます。
さすがにここまで来ると、これは怪しいと馬は気付きます。荒っぽい口調で言います。ちょいとあぁた、冗談じゃねぇ。どこへ行くつもりなんだよ。ふざけちゃいけねぇやな。しかし、男は動じません。君、声を荒げちゃいけません。人が見るじゃないか。つい、あたしもいい心持になってふらふらっと出てきちゃったんだよ。じゃあ、これから帰ってもらおうと馬。ここまで歩いてきて引っ返すなんざぁ、おもしろくねえじゃねえかと男。馬は再び男の術中に嵌まります。通り越しちゃったんだが、叔父さんが田原町なんだと指差します。実は二の足を踏んだんだよ。勘定ができる代わりに商売がいやだからね。君が嫌がりはしないかと。早桶屋なんだ。葬儀社で勘定をもらったなんてえと、君も嫌だろうと思って。馬の反応は嫌どころか大歓迎でした。はかいきがするからいいですよというわけです。「墓息」とは即ち「はかがいく」というわけです。男は嵩にかかって言います。さっきから拝見してるが、その帯だいぶ擦り切れてるねぇ。男は帯に銭をかけなけりゃいけないよ。よし、ひとつ帯もつけようじゃないか。馬は腰を低くして、では、ひとつ頂戴を。
雷門を背に雷門通りを右に曲がれば田原町です。今でも仏具店が立ち並ぶことで知られています。ちょうど雷門通りと国際通りがぶつかる雷門一丁目の信号のところにパチンコ店がありますが、あっこに浅草のランドマークとも言うべき十二階があったんですよ、ハイッ。正式名称は凌雲閣。雲を凌ぐほど高いってわけです。日本で最初の電動式エレベーターが設置されていてね。明治の末には十二階演芸場もできてお客さんを集めていたって。関東大震災で八階から上が崩壊しちゃってさ。経営難から復旧できないというんで陸軍が爆破しちまう。戦後、十二階を模した仁丹塔が田原町交差点にできるんだけど、これも老朽化を理由に昭和六十一年(1986)に解体されて、現在はコンビニになっている。久保田万太郎曰く「むかし浅草には十二階と云う頓狂なものが突立っていた。赤煉瓦を積んだその高い不器っちょな塔の姿はどこからでも容易に望見できた」(『絵空事』)。残念ながら田原町で早桶屋は発見できませんでした。
男は早桶屋に入り、店のおやじにお願いというのはと大声で言った後に小声でささやきます。実はね、あの外にいる男の兄貴が昨晩腫れの病で急に亡くなりまして、ふだんから太っていたところへ腫れが来たので、並の早桶ではとても入らないので図抜け大一番小判型にしたら入るだろうとなったんですが、どこ行きましてもできないというんで、こちらならばとお願いにあがったわけでございます。男は再び大声でいかがでございましょう、おじさん、ぜひとも拵えていただきたいんですが。馬がはっきりと聞き取れるのは「お願いというのは┉┉いかがでございましょう、おじさん、ぜひとも拵えていただきたいんですが」という部分ですから、なるほどお金を用立てしてくれているんだなと錯覚してしまうわけです。早桶屋のおやじは図抜け大一番小判型の早桶を拵えることを承知します。男に抜け目はありません。男は早桶屋のおやじに更にこう頼むことを忘れません。外のあの男、兄貴が死んで頭がポーッときてるから、ときどき変なことを申しますが、気になさらず、あの男が参りましたら「大丈夫だ、オレが引き受けた」と、こうおっしゃってやって下さいな。こうして男は馬を招き入れます。そして、馬に言います。自分は買い物があるから、すぐに帰って来るけれど、君、できたら受け取って、じゃあ、ちょつと行って来るからと姿を消します。男は解放され、馬は破局を迎えることになります。
馬と早桶屋のやり取りが始まります。当然、話が噛みあいません。お客は破局に至るまで擽られ続けます。お気の毒なことでございましたなあ。昼は別にこれという決まった用もございませんから。よほど、長かったんですか。いえ、昨夜一晩で。そりゃあ驚いたろうね、急に来たんだね。だしぬけにいらっしゃいました。たいそう腫れたそうですね。惚れましたか、どうですか。早桶屋のおやじにお通夜は?と聞かれたあたりから、馬も、んっ?何かおかしいと気がつき始めるのですが、もはやなすすべもない。どうして持って帰りますか。財布の中に入れて持って参ります。お前さん、よほどどうかしているよ、しっかりしなくちゃ。
遂に図抜け大一番小判型の早桶が出来上がります。木口、手間代、両方で十二円にしておきましょう。小判型というのは、あまり見ないものでございますなあ、これが十二円で┉┉。そう十二円です。どちら様のお誂えで?冗談言っちゃあいけねえや、お前さんが誂えたからえたんじゃないか。男の仕掛けた罠が総て発覚します。早桶屋のおやじは言います。そうか、それで様子はわかった。お前も間抜けじゃないか。付き馬するんだったらちっとは頭を働かせな。相手を逃がした後でジタバタしたってしようがねぇ。仕方ない、木戸代だけの五円に負けてやるから、そいつをしょって帰れ。こうして馬は追い込まれてしまいます。遂に無理矢理、早桶を背負わされてしまいます。
「あたしゃあ、もう一文なしだ」
「なに、銭がねえのか。おいっ!小僧、吉原までこいつの馬で行ってこい」
馬に馬が付けられたという次第で。