昭和四十(1965)年二月七日、アメリカ軍による北ベトナム爆撃、いわゆる「北爆」が開始された。
その年の三月、哲学者の鶴見俊輔は東京のとある展覧会場で高畠通敏に会った。「北爆」に反対するデモを企画できないものかと二人は考えた。四月に開かれた相談会で若い世代からリーダーを選ぼうということになった。
そこで白羽の矢がたったのが小田実であった。昭和三十三年(1958)、フルブライト留学生としてアメリカに渡った小田は、その経験をもとにして書いた『何でも見てやろう』がベストセラーとなるなど、社会運動には縁がなかったが行動派作家として若者に支持されていた。
鶴見が小田に電話をかけた。二人はそれまで対談で一度会っただけの関係に過ぎなかったが、小田は代表役を快諾する。脇を固めたのは武藤一羊、吉川勇一の日共除名組であった。こうして四月二十四日、「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」がアメリカ大使館へのデモ行進とともに発足する。
ビラには「私たちは、ふつうの市民です」と書かれていた。翌年には「文化団体」がとれて「ベトナムに平和を!市民連合」となる。略して「ベ平連」という名称を考え付いたのは高畠であった。平井一臣はこう書く。
「ベ平連の運動の担い手には、六〇年安保やその他の社会運動の経験者と、ベ平連への参加により初めて社会運動を経験した者、すなわち社会運動への新規参入者が含まれ、戦後日本の社会運動との連続と非連続の両面を備えた運動であった」
スローガンは三つ。「ベトナムに平和を!」「ベトナムはベトナム人の手に!」「日本政府はベトナム戦争に協力するな!」の三つ。小熊英二が『‹民主›と‹愛国›』で指摘しているように「絶対的な真理をさける鶴見」と「現実の抽象化を嫌った小田」らしいスローガンである。鶴見は述べている。
「ベトナム戦争が終ったら、それで世界がよくなるとか、社会主義になれば、それで世界がよくなるというふうに考えることはできない」
ただ、ベトナムのことはベトナム人が決めたら良いではないか。彼らが共産主義を選ぼうが何を選ぼうが放っておけば良いのだ。ベ平連は新左翼も含めて左翼党派にありがちな神学論争を拒否するところからスタートしたのである。
当然、前衛党的なる要素をできる限り排除した。来る者は拒まなかった。去る者は追わなかった。本部があり、支部があるという組織のヒエラルキーもとらなかった。「ベ平連」を名乗れば、そのときから規模の大小に係わらず、対等な「ベ平連」であった。言い出した人間がする。人のやることに文句を言わない。好きなことは何でもやれ。この三つが行動原則となった。
「ベ平連」は真面目な共産主義よりもいい加減なアナキズムに近い「非暴力直接行動」の「運動」であった。それは本質的な部分で鶴見俊輔の「好み」であったのかもしれない。「ベ平連」の「運動」が一九六八年の「革命」にシンクロしたのも、アナキズムが「ベ平連」の底流にあったからであろう。共産主義労働者党が侵食するも、「ベ平連」はこの党派に全面的に従属することはなかった。
「ベ平連」の自由な雰囲気は様々な人々を仲間に巻き込んでいった。開高健もその一人。開高の発案で「ニューヨーク・タイムズ」へ全面反戦広告が昭和四十年十一月に掲載されることになった。昭和四十二年(1967)四月には前衛アーティスト岡本太郎の筆によって「殺すな」と大書された文字の下に英文のメッセージをデザインした反戦広告を「ワシントン・ポスト」に掲載した。
「ベ平連」は政治の言葉をもってすれば、確かにいい加減ではあったが、文化の言葉をもってすれば「しなやか」であった。その「しなやかさ」を多くの人々が支持した。学生や社会人、主婦など、職業や社会的地位に係わりなく、多くの人々が「ベ平連」の「運動」を通り抜けていった。
昭和四十九年(1974)一月パリ協定調印後のアメリカ軍の全面撤退を受け、「ベ平連」は潔く解散した。