犯人の古屋栄雄が、刑務所の中から自分の実家に送った奇妙な手紙がある。
「ワンダフル二九ストーリー。皮二九な年。二九年に二九歳の男が九月に一九娘の二九を切り二九まれた。二九歳の男を同日頃に皮二九にも一九歳の時知り合った女が尋ねた。皮二九にも会えない、不思議にも二九年十一月一九日逮捕、皮二九なことであろうという訳である。では皆様も身体にして下さい」(原文のまま。「身体」の後に「を大切」が抜けていると思われる)
二九を゛ニク゛と読ませた古屋栄雄(当時二十九歳)が昭和二十九年九月五日に犯した犯罪は人違いバラバラ殺人事件であった。古屋が東武東上線の新河岸駅を降り立ったのは五日午後一時三十分ごろのこと。゛彼女゛を捜し出すためだ。゛彼女゛が何と言おうが、オレは゛彼女゛と結婚の約束をしたのだ。知り合ったのは四年前、山梨県塩山市のダンスホール。゛彼女゛は美人で、優しかった。古屋は自らの両親を説得し、彼女の両親に結婚を前提とした交際を申し込むが、拒絶される。
「定職がなければ認めるわけにはいかない」
確かに地元での古屋の評判は゛前科者゛であり゛ワル゛であった。ならば、上京して一旗あげて立派な男になれば結婚は了解される。古屋はそう短絡した。しかし、上京したものの職を転々とするばかり。前科も増えた。
それでも古屋は諦めない。一九五三年(昭和二十八年)七月に再び゛彼女゛との結婚を両親に申し込む。今度は明確に断られた。娘のことが心配でならなかった両親は埼玉県の姉のもとに避難させるが、古屋も゛彼女゛を追って上京。彼女はオレのことを好きなはずだ。古屋は゛彼女゛の姉のもとを訪ねた。応対に出た義兄は「正業につけば居場所を教える」と言い、職まで紹介してくれた。朝霧の映画館。看板描きやビラ貼りの仕事は性に合った。一年が過ぎた。しかし義兄は゛彼女゛の居場所を教えない。
一九五四年(昭和二十九年)九月一日、古屋栄雄は映画館を辞め、゛彼女゛を探し出す決意を固める。゛彼女は埼玉県内にいるはずだ。゛彼女゛への思いはすでに尖鋭化している。゛彼女゛と出会ってから、一度も遊郭に遊びに行ったことはない。オナニーだって一度もしていない。そもそも゛彼女゛とはセックスだってしていない。キスだけの清らかな関係。セックスは正式に結婚してからと我慢しているのだ。
ストーカー法のまだ存在しないこの時代、女の性器を見て気持ち悪くなるという古屋の゛狂気゛は野放しにされた。新河岸駅を降りた古屋は埼玉県入間郡高階村をともかく歩き回る。眼前に広がるイモ畑や陸稲畑。小学校の児童を前に絵を描いてみせる。そうこうしてるうちに日が暮れたので駅前の食堂に入ってメシを食う。その後も駅周辺をぶらついていた。
暗がりを一人の女性が通り過ぎる。その服装、歩き方、体つき、゛彼女゛に他ならなかった。尾行。あの女、オレとの約束を破りやがって。こんなところに嫁に来ていたのか。逃がしはしない。゛彼女゛との距離を縮める。二〜三メートルまで近づく。殺せ!「呪ってやる。オレはお前を呪っているんだ!!」と叫びながら、首を絞める。気絶した゛彼女゛を畑に引きずり込む。手拭いで完全に息の根を止めた。ボンナイフで、まずミルクタンクを切り落とす。最初に切ったのは右の乳房から。性器も切り落とす。しかも性器には布を詰めた。誰とも関係できないように。足はうつ伏せにして切った。両腕は切らなかった。もう切断するのが嫌になったからだ。古屋は切断した肉片を畑や肥溜めに投げ捨てた。
古屋が゛彼女゛が゛彼女゛でないことを知るのは翌日の新聞報道。しかし、後悔の念はわかなかった。本物の゛彼女゛に会いたいという思いが、すべての感情に優先したのだ。人違いで殺されたのは地元の旧家の十九歳になる娘で、高校卒業後、家の仕事(農業)を手伝っていた。そして、事件から七十四日後、古屋は逮捕される。「人違いだった」と自供する古屋の発言を最初は誰も信じない。やがて古屋の自供に間違いがないことが確認されると、殺人・死体損壊、死体遺棄で起訴される。一審の判決は古屋が強盗も強姦もしていなかったことから無期懲役。これを不服として古屋は控訴した。
一九五五年(昭和三十年)八月二十日、東京高裁控訴審での最終尋問。遂に゛彼女゛が古屋の前に姿を現す。彼女は証人として出廷した法廷で、こう言い切った。
「古屋は勝手に私のことを恋人だと思っているだけで私には迷惑ですし、私には全く関係ないことです」
被告人席の古屋の感情が爆発する。一気に゛彼女゛のもとに突き進む。隠し持っていた竹で胸を突き刺す。八月三十日、東京高裁は一審の判決を棄却、死刑を言い渡した。