やくざ幻論 近世末を走り抜けた「悪党」たちの美しい痕跡

私はヤクザが好きである。しかしだからといって私にヤクザの親友がいるというわけではない。もちろん、私の親族にヤクザがいるというわけでもない。私がヤクザを好きだというのは、高倉健鶴田浩二が好きだったということに他ならない。彼らが主人公をつとめる任侠映画が銀幕に映し出されるというフィクショナルな世界におけるヤクザが好きだということである。東映の三角マークのもとにつくられた任侠映画で味わったカタルシスが忘れられないのだ。東映仁侠映画におけるカタルトロフを必然化する悲劇的ロマンティシズムに彩られた着流しヤクザは、今でも私のヒーローに他ならない。例えば『昭和残侠伝』シリーズの耐えに耐えその極点において蹶起する高倉健。私はそこに゛小さな世直しの成就゛(松田修)を見る。異端を愛してやまなかった国文学者の松田修は『闇のユートピア』で゛小さな世直しの成就゛に至る過程を、恋する文体をもって次のように書いている。
「とある日本の片すみで、『平和な』庶民生活が営まれている。一匹狼のやくざ高倉健(ないし健たち)にさえ、しばしば藤純子に象徴される平凡な日常生活的幸福がほほえみかけ、ふと彼はその日常にからみとられかねない。ところが、その、とろとろとなまあったかい幸福に影がさす。『幸福』がその虚構性を露呈する。
権力と資本が癒着し、その醜い末端に、悪いやくざが踊り、庶民は泣く。いわく、立ちのきである、米の買い占めである。港湾整備である、大建設である。よいやくざ組織は、庶民を防衛しきれない。動揺する庶民、日和見の一派。これでもか、これでもかと、凌辱が、残虐が続く。
しかし、高倉健は動かない。耐えに耐え、撓(た)めに撓(た)めた満身の反り。踏みつづけられた橋の沈黙の反り、石垣の稜線の全重圧を支える反り、おち入り一瞬前の息をつめた女形の反り、耐えることの極限における、危うい危うい一瞬の反り。健は起つ。突如起つ。あるいは組織をカバーしてくれていた旦那衆がやられたのだ」
かくして「外部」からやってきた高倉健はたった一人で悪の巣窟に殴り込みに向かうことになる。血気盛んな連中をなだめてのことである。闇に包まれた一本道を歩き始める高倉健のバックに流れるのは彼自身の歌う「唐獅子牡丹」。何故か雪がひらひらと舞ったりして。そこに池部良が現れる。松田修によれば、池部は゛健への殉死者、森田必勝として゛同行することになる。かくして悪の巣窟での大立ち回りとなるのだ。多勢に無勢という構図のなか、池部良が討ち死にし、高倉健も傷つくのだが、何とか悪いヤクザの親分を肉体言語をもって斬り倒して、しかし、ハッピーエンドとはならないのである。ようやく駆けつけてきた警察に高倉健が逮捕されることを示唆して゛終゛のマークが銀幕に映し出されることになる。
こうしたヤクザ映画の゛小さな世直しの成就゛としてパターン化された物語の構造には、江戸時代の百姓一揆を背景のする゛義民伝説゛として語り継がれてきた物語の構造が恐らく投影されているのではないだろうか。
二・二六事件の首謀者として死刑に処せられた北一輝は刑の執行を前に「座るのですか、これは結構ですね。耶蘇や佐倉宗吾のように立ってやるのはいけませんね」という最後の言葉を残したそうだが、佐倉宗吾こそ最も有名な義民伝説の主人公なのである。北一輝ばかりでなく、一九五二年、レッドパージによる日本共産党員の公職追放に際して、当時日本共産党の政治局員であった野坂参三も演説のなかで佐倉宗吾のイメージを利用している。
「内外の反動勢力は共産党に弾圧を加えようとしている。だが共産党は絶対につぶされない。一人の共産党員を捕らえれば、一〇〇人の共産党員がでてくる。われわれは佐倉宗吾になることを決意している。犠牲は共産党がひきうける。共産党の弾圧をはねのける手段は労働者階級のゼネストである」
佐倉宗吾は実在の人物であり、゛宗吾゛ではなく゛惣五郎゛と記すほうが正確なのかもしれないが、いずれにせよ、佐倉宗吾の義民伝説の概略をここに記してみることにしよう。
舞台となるのは下総国佐倉藩。飢餓であるにもかかわらず、過酷な年貢を取りたてるという悪政がはこびり、これに耐えかねた領民は百姓一揆を決意するに至る。しかし、佐倉宗吾は、そんな農民たちをなだめ、まずは百姓一揆の作法に従って訴願するすることを提案する。しかし、佐倉での訴願は受け入れられず、江戸藩に門訴するが、これも受け入れられなかった。宗吾と三人の名主は老中に駕籠訴するが、これもまた失敗。しかも佐倉宗吾は藩権力から追われる身となってしまうのだ。゛これでもか、これでもかと、凌辱が、残虐が続く゛なかに耐えに耐えるわけである。そして宗吾は遂に宗吾ひとりによる将軍直訴を決断する。将軍への直訴は天下の御法度であり、事の成否にかかわらず処刑は免れない。妻子の今生の別れを告げるべく、闇夜に紛れて国元へ戻ろうとする宗吾、しかし、印旛沼の渡しは夜間通行が禁じられている。宗吾は渡し守の甚兵衛を訪ねる。この甚兵衛は、『昭和残侠伝』シリーズにおける池部良の役割を果たす。宗吾の義侠心に同調した甚衛衛もまた禁制を破って舟を出す。そして宗吾を無事に送り届けた後に宗吾よりも一足先に自らの命を絶つ。我が家に辿り着いた宗吾は妻に罪が及ばぬよう離縁状を渡すが、妻はこれを拒否。宗吾は目を醒ました子どもたちとしばらく遊んだ後、夜明け前に家を出る。泣きじゃくる子どもたち。ここでも雪が舞う。たった一人の出直しを彩るのは、ここでも雪なのである。
宗吾の将軍直訴は成功する。一六五三(承応二)年一二月のことである。しかし、それでハッピーエンドとはやはりならないのである。佐倉宗吾は妻子とともに処刑されてしまうのである。高倉健と佐倉宗吾の違いは蹶起において武器を手に取るかどうかに過ぎないのである。それはヤクザと義民の違いということになる。しかし――。
佐倉宗吾の処刑場所は、成田市東勝寺のあたりであるといわれている。京成電鉄宗吾参道駅。現在でもこのように佐倉宗吾の名前は、駅名にも地名にも残っている。この宗吾参道駅から歩くこと一五分で宗吾霊堂として知られている東勝寺がある。ちなみにここは佐倉市ではなく、成田市宗吾。この寺の一角に佐倉宗吾の義民伝説を人形ジオラマで紹介する宗吾一代記念館がある。この人形ジオラマの佐倉宗吾は股旅ものでお馴じみの三度笠にカッパという出立なのである。脇差は携行していないもののこの衣装から、佐倉宗吾をヤクザと理解してしまっても不思議なことではなのである。
義民はヤクザのように描かれ、ヤクザは義民のように描かれる。国定忠治がそうで、『天保水滸伝』がそれである。
国定忠治は飢饉であえぐ民衆のために代官所を襲撃し、『天保水滸伝』の笹川繁蔵は凶作で苦しむ民衆を救うために大前田英五郎、国定忠治清水次郎長など当時のヤクザオールスターを招いて大花会(バクチだ!)を催す。それが歴史的な事実であったかどうかが問題なのではない。講談、浪曲、小説、歌謡、映画、演劇など゛街の芸術゛(加太こうじ)がおりなす様々な物語を通じて、民衆は義民としてのヤクザの記憶を堆積させてきたのである。私だけがヤクザを好きなのではない。ニッポン人は総じてヤクザが好きなのである。二一世紀に入った今でもレンタルビデオ店に行けば゛任侠もの゛のVシネマがコーナーの一角を占めているし、一九六〇年代は東映任侠映画の全盛時代であったし、そもそも映画においてはサイレント初期からヤクザを主人公にした作品がつくられている。
目玉の松ちゃんとして民衆から愛されたサイレント時代の大スターである尾上松之助は一千本以上の映画に出演しているが、その最後の作品は『侠骨三日月』というヤクザ映画であった。歌謡曲においても『人生劇場』や『大利根月夜』は今でもカラオケで歌われているし、新国劇においても間違いなく民衆は義民としてのヤクザを主人公に捉えた物語を愛してきたのである。そのディティールにおける歴史的事実はどうであれ民衆の精神史においてヤクザは義民像をともなっていなければならなかったのである。何故か。そうした個々のヤクザの実像はどうであれ、実像を誇張せずにはいられなかった歴史的基盤が民衆の歴史そのものに横たわっていたからではないのだろうか。
下総国佐倉藩という一地方での出来事にしか過ぎなかった佐倉宗吾の義民伝説の基礎となった『堀田騒動記』『地蔵堂通夜物語』の成立年代は一八世紀末から一九世紀初頭にかけてのことだが、広く民衆に知れ渡るようになるのは一八五一(嘉永四)年に歌舞伎『遠山桜壮士』が江戸で上演されてからのことである。その翌年にあ大阪で『花曇佐倉曙』として上演され更には『佐倉荘子後日文談』『東叡山農夫願書』などの外題で上演されていくことになる。゛ヤクザを主人公にした物語の最初の作品゛たる宝井琴凌の講談の『国定忠治』と『天保水滸伝』が成立するのも、これと同時代の出来事であった。近世から近代へという時代の転換期において成立していった物語であったわけである。やや厳格にいうのであれば、情況の物語として佐倉宗吾の義民伝説が先行し、情況のただならぬ深化に連動する形で『国定忠治』や『天保水滸伝』の物語を必然化していったということになるのかもしれない。そのような角度から民衆化を読み直してみる必要があるはずだ。史学者の安丸良夫氏の言葉を借りつつ言うのであれば、多くの資料に無宿、博徒、悪党など記載されているヤクザが「束の間の集団的高揚を通して歴史をその最深部からゆり動かす威力となり、歴史の形成力となった」(『一揆・監獄・コスモロジー』)。
須田努は『「悪党」の一九世紀』のなかで三一書房から刊行されている『編年百姓一揆史料集成』第一巻から一九巻までに記載された事例から違法とされた強訴、徒党、逃散、打ちこわしに関連する史料一四三〇件のうち、一揆に゛悪党゛が加担したデータを抽出している。『編年百姓一揆史料集成』は、現在も刊行中であるため一八六〇(万延元)年の史料までしか収められていないのだが、゛悪党゛の表記が見られる史料は一七世紀のものが二件、一八世紀のものが一七件、一九世紀は一五件となっている。この一五件のうち何と一一件が天保に集中していることが分かる。また、一八世紀の一七件のうち一七八〇年以降のものが四件を占め、更に二〇巻以降の゛編纂過程での感触として、「悪党」が跳梁するつぎのピークは慶応期であるとの予想゛が立てられるという。こうした歴史の流れは、情況の物語として佐倉宗吾の義民伝説が先行し、情況のただならぬ深化に連動する形で『国定忠治』『天保水滸伝』の物語が生まれていくと考える私の読みにパラレルに対応することになる。
断るまでもなかろうが、゛悪党゛のすべてがヤクザというわけではないだろう。しかし、゛悪党゛を彩る゛無宿゛゛博徒゛゛脇差゛といった言葉から、一八世紀末から一九世紀という徳川幕藩体制が崩壊することで近世から近代に移行する時代の転換期にヤクザが、百姓一揆・世直しの最前線に躍り出て、それこそ゛厄座゛の役割を果たしていたと類推しても、あながち見当はずれとは言えないはずである。゛厄座゛とは゛共同体の外部との「断絶」にかかわる隠れた役割を負う者との意を含んだ言葉゛(朝倉喬司)なのである。村落共同体が自然災害やこうした自然条件と密接に絡みあう幕藩権力による悪政などに直面した際、村民の身代わりとして自身の生命を犠牲にする宿命を背負っていたのがヤクザだったとは考えられないだろうか。須田が『編年百姓一揆史料集成』から引いた一揆に加担する゛悪党゛を活写した史料を見ていくこおtにしよう。
「下加古川上ヲこぼち候も向に恐ル気立無之、右ニ付御領分之百姓へ御下知有之、百石ニ付捨人ツ、随分達者成者火急ニ可指出、勿論百姓庄屋差添、悪党共無念会釈打留可申趣被仰渡候故、他領之役人方は姫路之百姓強、然レ共百姓拾七人大怪我等、御馬上の御侍壱人怪我有之、侍壱人即死ニ乞悪党五十人生捕」
一八三三年の加古川一揆に際しての史料であるが、゛悪党゛五〇人を捕らえたというのである。こうした゛悪党゛は百姓一揆に固有の鋤、鍬、鋸、鎌、棒を持ち出すにとどまらず、゛不当之道具゛までも手にしていたという。恐らく゛不当之道具゛を手にすることで、百姓とは一線を画してしたのである。では、この゛不当の道具゛とは何か。次の史料から、それが゛長脇差゛であることが分かる。
「・・・・道連播州小野菩薩所光明寺納所嵯峨天龍寺へ登る僧ノ説ニ曰、播丹境清水・古市辺ノ起実ニ人数壱万人、四手ニ分ル、騎馬之者なし、長脇差之者七人斗有之、・・・・」
゛長脇差゛を携行することで鋤や鍬を手にする゛百姓゛と一線を画す゛悪党゛がヤクザであった可能性は相当高いはずである。
須田は一八三六(天保七)年の伊豆国加茂郡幕府領下田町打ちこわしに「博徒として噂がある人物岩次郎倅伝七が参加していたことを紹介」しているが、この打ちこわしの翌年に「下田町の五人組頭らが幕府の韮山代官所に提出した請書の内容が記され」た史料が次のものである。
「一 無宿并無頼之党、博奕其外悪事之及所業候ニ付、取締として手代廻村為残、其時々請書申付候趣ハ、兼々宿村役人共心得居候事ニ候間、小前末々迄常々申諭、良民之害ニ成候ものハ不捨置差押可訴出候、宿方が別々之儀、村々ニおゐても無宿并悪党共徘徊致候を不相構、剰宿致し博奕為催、又は盗物と乍心付質物売渡等之世話致候もの有之故、其所は勿論、近村迄良民之風俗不宣様成行、終ニ農業を怠り、悪者共へ与し、博奕其外悪業差働く、果は無宿無頼之党ニ陥候間、向役所役人ども不純見廻、組限相互ニ心付、石之迄徘徊いたさせる、・・・」
゛博奕゛を催したり、゛盗物と乍心付質物渡等之世話゛をする゛無宿゛゛無頼之党゛がヤクザであることは間違いあるまいが、彼らが村々を゛徘徊゛するようになると、゛良民゛までもが、゛農業を怠り゛゛博奕其外悪業゛を働くようになり、果ては゛無宿無頼之党゛に陥ってしまう者も現れるというのである。幕府は、こうした事態を恐れて゛無宿゛゛無頼之党゛を取締の対象としたと、この史料は物語っているのである。こうした構図は現代に至るまでも有効性を保っていると言って良いだろう。あだしごとはさておき、ヤクザが村落共同体において、゛厄座゛の役割を果たし得たのは村落共同体の内部における゛若者゛が敏感に感応したからであると考えられるだろう。゛博徒゛として噂のある゛岩次郎侠伝七゛もまた゛若者゛であることに着目したい。この時代、゛若者゛もヤクザ同様に時代の最前線にせりあがってきたのである。村落共同体の外部からやって来た゛厄座゛なる゛無宿゛゛無頼之党゛と村落共同体から疎外された゛若者゛はそれこそ゛博奕゛を通じて連帯し、一揆や打ちこわしの原動力となっていったのである。一八〇二(享和二)年、紀伊国和歌山藩牟婁郡尾鷲町の打ちこわしでは、役人を全く恐れずに行動した゛若者゛を゛ごくどふ者゛と意識していたことが次のような史料から見てとれる。゛ごくどふ゛は言うまでもなく゛極道゛であり、ヤクザを指し示す言葉のひとつであることは言うまでもない。
「七月廿九日夜内ニ居申候処、林浦平蔵と申者私方へ参り、今宵ハ騒動之品有候間、其元も右へ加り出候様申候得共、私儀は出不申内居申候、其夜大勢集り候は、私宅キ浜ニて御座候、若者共役人中へ恐れず参候様、ごくどふ者共と大工平蔵申通候を、私内ニて承り申し候、・・・」

ちなみに『天保水滸伝』の主人公である笹川繁蔵は゛博徒゛であり、かつ、゛若者゛であったのである。繁蔵の生年は一八一〇(文化七)年と言われているが、笹川の花会を経て、一八四四(天保一五)年の大利根河原の決闘に至るわけだが、この時、繁蔵は三一歳であった。『天保水滸伝』の物語ではなく、実際の史料によれば、繁蔵が勘左衛門なる人物の妹を誘拐し、その詫び状を関東取締役出現に提出したのは二六歳のころであるという。(『飯岡助五郎正伝』伊藤實)
安丸良夫氏は『一揆・監獄・コスモロジー』のなかで一八三六(天保七)年の甲州騒動を取りあげている。甲州騒動もまた打ち続く飢饉、凶作を背景にして、米価の引き下げを求めて郡内地方で一揆の口火が切られたが、郡内勢が笹子峠を越え、熊野堂村へ向かい、奥右衛門家を打ちこわしてから様相が一変することになる。一揆を担った郡内勢は引き上げていったが、「飢えた窮民が各地域で富豪の家をつぎつぎに襲う打ちこわしに転化した」(安丸良夫)のである。この段階から゛悪党゛が中心的な役割を果たしていくことになるのだ。一揆から騒動へと発展していった打ちこわしに゛無頼の悪党共大勢相加゛わっていったのである。
何しろ「甲斐国騒立一件御裁許書」から゛国中局面における騒動勢の構成をみてみると、全二三二名のうち、修験二名・無宿坊主一名・無宿一一五名・身分未記載(百姓)一一四名となっている゛(須田努『「悪党」の一九世紀』)。安丸はこの段階における甲州騒動について次のように記している。
「・・・たとえば相模国の無宿吉五郎は、郡内勢が引きとったあとで頭取となり、騒動勢を指揮した人物の一人だった。彼は、奪いとった刀脇差を構え、人足の旗をもたせ、「御用」と書いた提灯をもっていた。また、長浜村の無宿五郎は、奪いとった長脇差を帯し、女帯で襷をかけ、徒党の者を指揮して、彼らを甲府の町に入れまいとする役人たちの説得を拒否し、「真先(まっさき)ニ進ミ、徒党之もの共申励(もうしはげま)し押破通(おしやぶりとお)った。江尻窪村の岡吉は、頭取から貰った皮羽織(かわばおり)を着て赤い紐の襷をかけ、長脇差を帯び、紙幟(かみのぼり)を人足にもたせて、徒党の者を指揮した」
打ちこわしのリーダーとなった゛無宿゛゛悪党゛は百姓からすれば゛異形之姿゛で現れ、刀・脇差武装していたわけだが、安丸は゛混乱のなかで盗みは避けられなかったが、しかし、盗みとされている行為の主要な側面は、刀・脇差・衣類などを奪いとって身につけ、酒食を飲み食べるとく範囲内のこと゛であることや゛物財の破壊は徹底的になされたが、人間に対する殺傷は行われなかった゛ことに注目している。しかし、彼らは幕藩権力のむき出しの暴力によって鎮圧されてしまう。彼らのイメージは佐倉宗吾に代表される義民のそれと相似形をなしていると私は言い切ってしまうことにしよう。
このように甲州騒動の国中局面でリーダー的な役割を果たした、すべての゛無宿゛を入墨者の博奕をして騒動に参加した無宿がそこに見られるとはいえ即座に全員がヤクザであるとは断定できないものの(たとえばサンカであった可能性もあろう)、こうした゛無宿゛の有り様は、民衆の無意識のうちにしっかりと張りつき、だからこそ国定忠治の物語においては民衆のために代官所を襲撃しなければならなかったのではあるまいか。
時代を更に下だり、一九世紀半ばを過ぎた慶応年間の世直し騒動においては、゛悪党゛゛無宿゛に加わって、゛博徒゛という言葉をはっきりと見て取ることができるようになる。一八六六(慶応二)年の武州世直し騒動では「・・・正代村隣村内博徒有之右之もの一揆企て風聞有之」とあるように、゛博徒゛すなわちヤクザが世直し騒動を企てたという風聞が広がったし、一八六八(慶応四)年の野州世直し騒動でも刀、槍で武装した゛博徒゛らしき者が世直し勢の頭取となっていたことも須田は『「悪党」の一九世紀』で明らかにしている。しかも、こうした世直しは゛上下無゛というある種のユートピア的な状況を生み出すこともあったのである。
むろん、百姓一揆や世直しといった一九世紀の民衆運動におけるヤクザとおぼしき゛悪党゛たちの係わりを過大評価してはなるまい。しかし、゛無宿゛や゛博徒゛が反乱のリーダーとして、歴史の舞台に躍り出てきたことを過小評価してもなるまい。またこうした周縁の歴史のダイナニズムによって鍛えあげられていった義民伝説や義民のように描かれたヤクザの物語が、仁政イデオロギーや一君万民イデオロギーに容易に結託してしまうことも忘れてはなるまい。だが、しかしなのである。
歌舞伎界の異端児として、またスキャンダラスな映画作家として知られる武智鉄二に『日本やくざ列伝 無頼の歌』という著作があることを知ったのは『ヤクザ』(朝倉喬司)によってであるが、このなかで武智は山口組三代目組長たる田岡一雄こそ国定忠治以来の本道を歩む最後のヤクザであると最大級の評価を与えている。
なぜかと言えば、大正四年に結成された山口組は大正七年の米騒動に際して一揆民衆の側に加担して、神戸の鈴木商店焼討に加わったからだとしている。「山口組米騒動の人民警察としての役割を果たすための歴史的宿命を担って登場した」というわけである。武智は山口組鈴木商店焼討に加わったという歴史的な史料を一切提出してはいないことから、にわかに信じるわけにはいかないが、私たちが史料を通じて垣間見てきたように近世末期のヤクザを思わせる゛悪党゛゛無宿゛゛博徒゛゛無頼゛が民衆運動において先頭的にして、戦闘的に関与してきたことを一世紀を隔ててるとはいえ、重ねあわせてみるならば、十二分にあり得たことであると言えるだろう。しかし、わが国の多くの知識人の評価は、北一輝野坂参三に象徴されるように佐倉宗吾どまりであったのである。誤解を恐れずにいえば多くの知識人にとって民衆が佐倉宗吾をヤクザとして愛してきたことも理解のラチ外のことであったのである。
佐倉を始発とするJRの成田駅。これに乗り込み佐倉、成田と佐倉宗吾の義民伝説の舞台となるエリアを通り過ぎて一時間一〇分ほど走ると笹川に到着する。笹川繁蔵の笹川である。天保水滸伝遺品館は村役場の隣につつましく建っている。この遺品館のなかに゛利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟゛と毛筆で力強く書かれた書が展示されている。これは玉川勝太郎が大ヒットさせた浪曲の一節である。その横に゛田中角栄氏直筆゛とある。あの田中角栄もまた玉川勝太郎浪曲を通じて笹川繁蔵のような゛義理にゃ強いが情けに弱゛く民衆の側に立つヤクザが好きであったのだろう。
日本人は、み〜んなヤクザが好きなのである。゛反乱のなかにある村落共同帯の思い出゛(平岡正明)がそんなヤクザの物語を触媒にして蘇ってくるのである。言うまでもなく村落共同体の思い出とは、権力者でなく、民衆の歴史そのものであるはずである。