東日本大震災1年 オセロ中島知子騒動から考える

この数週間、芸能ジャーナリズムの関心はオセロの中島知子に集中していたと言って良いだろう。
オセロとは人気女性お笑いコンビであり、松嶋尚子が相方である。また中島は「お笑い」の枠組にとどまらず、テレビドラマや映画でも主役を張るほど活躍していた。NHKの『ルームシェアの女』では主演をつとめたし、映画『三年身籠る』でも主演していた。そんな中島知子がテレビ『運命の人』で外務省機密漏洩事件の西山太吉をモデルにした主人公を演じる本木雅弘に本木所有のマンションの家賃を滞納していると告発されたという報道が騒動の発端であった。実は、その背景には中島は得体の知れない女性占い師と同居し、その占い師にマインドコントロールされているという深刻な事態が横たわっていたことが報じられると、芸能ジャーナリズムのテンションは一気にピークに達した。
もっとも、中島が占い師によって洗脳されているという記事は昨年の段階で既に女性週刊誌では報じられていた。『NEWSポストセブン』で中島知子を検索してみるとわかることだが、中島が昨年4月に休養宣言をした段階で、女性占い師の影が指摘されている。『NEWSポストセブン』によれば『女性セブン』が2011年5月12日・19日号で次のように報じていたことがわかる。

オセロの中島知子(39)が4月9日から3週連続で生放送『知っとこ!』(TBS系)を欠席。25日には、中島が事務所を通して、「しばらくの間休ませて頂き、早く復帰できるよう治療に専念したいと思っております」と“休養宣言”した。しかし、この裏には深刻な事情があるという。事務所関係者はこう話す。(中略)テレビ関係者によると、今回の休養の理由のひとつには、中島が信頼する占い師の存在があるという。
「心酔する占い師が数年前からいるんです。占い師のアドバイスが原因で、松嶋と怒鳴り合いのケンカまでしたこともあるようです。スタッフなどの意見も聞かず、占い師のいうことだけを考えて行動するようになってしまったようです。それでどんどん孤立していったんでしょうね」

『NEWSポストセブン』で今日に至るまでの中島知子の痕跡を追ってみよう。
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数多の芸能ジャーナリズムの報道するところによると、2月28日夜、中島知子の父親と不動産管理会社の社員、弁護士、事務所関係者が中島のマンションを訪れ、奪還に成功し、現在、中島は都内の病院に入院しているが、奪還の決め手となったのは警視庁渋谷警察署の捜査員が同行していたことらしい。弁護士がこのままでは逮捕されてしまうかもしれないと説得した結果なのだそうだ。
この一連の中島知子「洗脳」騒動に私たちが熱狂したのは何故なのだろうか。多くの人々が中島知子に同情したことは間違いない。得体の知れない女性占い師に騙されてしまうなんて中島はバカな奴だなあと思いながらも、あそこまで「洗脳」されてしまって可哀想だと思う。そんな「反応」を前提としながら芸能ジャーナリズムの報道はなされていたと言って良いだろう。私もまたそうした報道に触れて、そう思ってしまったクチである。
しかし、私はそう思った後で、私もまた中島同様に「バカな奴」ではないのかと自問せざるを得なかった。中島知子は女性占い師を信じてしまったわけだが、私も含めて人間は誰でも「信じてしまう」動物なのではないだろうか。中島の休養宣言から奪還に至るまでの一連の騒動の期間は東日本大震災から1年という期間にすっぽりと収まる。2011年3月11日以前、大多数の国民は原子力発電の絶対安全神話を信じきってしまっていた。しかも、無根拠に信じてしまった。それは信仰に近いものであった。
私は中島知子を笑えない。もちろん、以前から反原発の運動はあったが、政治イデオロギーとしてだけしか存在していなかったと言って良いだろう。その程度の反原発では人びとを原子力発電を本尊とする幸せ信仰から解放することなど土台無理であったというべきだろう。福島第一原発放射線物質を撒き散らした過酷事故によって、そうした信仰に綻びが生じ、その綻びを何とかすべく、脱原発の信仰に飛びつく。「信じてしまう」ことにおいて原発依存も、脱原発もその距離に大差はないのだ。
何故、人は簡単に信じてしまうのだろう。人は簡単に「誰か」や「何か」を信じてしまう。その「誰か」や「何か」は第三者からすれば取るに足らないものでしかなくとも、「私」という人間はちょっとしたきっかけによって「誰か」や「何か」を信じてしまうし、「誰か」や「何か」に依存せずには自分が生きているという証しを手に入れられなくなってしまう。中島知子は芸能活動の傍ら母校の京都府立洛東高等学校で「学校評議員」として学校運営等に関するアドバイザーをつとめていたそうだが、そのくらい社会に関心を持っていた人物ですら、得体の知れない女性占い師を信じてしまうのだ。
原子力発電でもそうだ。これまでも様々な事故を起こしてきたが、それでも絶対安全神話が罷り通っていた。人は裏切られても尚信じてしまうことをやめなかった。原発放射線物質を撒き散らし、多くの難民を生み出すにいたって初めて「洗脳」から解かれたが、即座に別の信仰に飛びつく。またしても信じてしまうのだ。
中島知子は確かに「洗脳」されていたのだろう。しかし、中島知子の言ってみれば「疎外」は例外的なものなのか。否である。私は中島知子を笑えない。人は簡単に水上を歩き、病を治してしまうイエスの奇跡を信じてしまった。中島知子が「洗脳」されてしまったように人はイエスに「洗脳」されてしまったのではないか。私たちは「原子力ムラ」に洗脳されてしまったではないか。
中島知子の一連の騒動は「信じてしまう」ことの悲劇にほかならない。その悲劇は、福島第一原発の過酷事故という悲劇に通じる。中島知子の騒動に人間存在の本質的な戯画を見て取るのであれば、福島第一原発の何10年という歳月を要さなければ解決しない過酷事故もまた誰も認めたくないのかもしれないが、私たちの創り出してきた時代の戯画に他ならないのだ。その戯画が原発の周辺に暮らしていた人びとから故郷を奪ってしまった。戯画であっても笑うことができないから悲劇なのだ。脱原発も、反原発もまた然り。
「誰か」を、「何か」を信じてしまう精神は、精神を失った状態の精神であるとマルクスであれば喝破しよう。だからマルクスにとって宗教は民衆のアヘンだということになる。原発の絶対安全神話も「宗教」であったに違いない。それもまた、民衆にとってアヘンだったのだ。
人は「信じてしまう」ことから自由になれないのだろうか。日本を信じよう。復興を信じよう。東北の明日を信じよう。私たちの未来を信じよう。昨年の3月11日以後、その手の言説が巷に満ち溢れた。しかし、そんなに簡単に信じてしまって良いものなのだろうか。「信じてしまう」ことが人間の特権であったとしても、「信じてしまう」ことから自由であっても良いはずである。別に私は懐疑主義者を気取っているわけではない。
私は『歎異抄』のある場面を思い出す。親鸞と弟子の唯円の対話だ。親鸞唯円に「信じてしまう」ことを戒めるのだ。まず親鸞唯円に「私を信じるか」と聞く。もちろん、唯円は信じると答える。そこで親鸞は自分の言うことに背かないかと聞く。親鸞を師として信じる唯円からすれば親鸞に背くはずもないし、何故、師はそんなわかりきったことを聞くのかといぶかしがったに違いない。そんな唯円親鸞は言い放つ。人を千人ほど殺して来いと、そうすれば極楽浄土に往生できるぞと。親鸞の言うことに背かないと言っていた唯円だが、自分は一人も殺せないと答える。それでは何故、背かないなどと安易なことを言うのだと親鸞唯円を戒める。
ここからが親鸞の真骨頂である。唯円が人を殺せないのは「きっかけ」がないからであって、別に「善」から殺せないのではない。逆に言えばひとは「きっかけ」さえあれば、殺すつもりはなくとも、100人でも、1000人でも殺せてしまうのだと。親鸞は「信じてしまう」ことの怖さを充分過ぎるほど認識していたのである。「信じてしまう」ことの怖さを自覚したうえで尚信じるとはどういうことなのかを親鸞は考え続けていたと言って良いだろう。親鸞にとって「他力本願」とは「信じてしまう」ことから自由になることに他ならなかったのではないだろうか。
「信じてしまう」ことから自由になるということは「信じない」ことではない。「信じてしまう」ことの狂気を自覚することに「信」の本質があるのだ。「何か」や「誰か」に依存してしまうことが「信」の本質では決してないのである。そのような「信」にどれだけ「言葉」が近づけるのか。あらゆる表現活動に問われているはずである。しかし、2011年3月11日以後、新聞あたりのマスメディアに書き散らかされた「言葉」は「信」とは全く無縁であったように私には思える。信じてしまったことに無反省であった。それどころか信じてしまっていたことをあろうことか隠蔽してしまっていた。「上から目線」と「お涙頂戴」を巧妙に使い分けながら、民衆を信じさせようと必死に「隠蔽」を繰り広げていたと言うべきか…。しかも、福島第一原発の暴走を前にどのように対応したのか、その「記録」すら残して置かなかった政府と一体になって、だ。「記録」に残さなかったということは、「記憶」を消し去り、「歴史」となることを拒否するという民主主義からすればあってはならない態度である。今や総ての責任はうやむやになりつつある。大東亜戦争がそうであったようにである。被災地において震災が今尚続いているにもかかわらず、「1億総懺悔」路線をひた走る。中島知子の騒動にしても両親が彼女を奪還したからといって問題に終止符が打たれるわけではなかろう。中島知子が「信じてしまう」ことから解放されないかぎり問題は解決しないのだ。