2012年3月11日のツイート 新聞と東日本大震災

讀賣新聞は「社説」で「仮設住宅や借り上げ住宅」に移っても「過度の飲酒やギャンブルにのめり込む人、精神的な理由で勤め先を辞める人が急増している」と書く。しかし、紙面は復興信話づくりに忙しく、そうした現実を伝える記事は一本もない。犠牲者の骸がそこにあるのに無視して来たように、である。
2012年3月11日 - 16:53 webから ·

讀賣新聞の「編集手帳」。私も「絆」は気の滅入る言葉の一つだが、「メディアは犠牲者と家族の人生に様々な光をあててきた」と断言できるほどの報道であったのか。死者1万5854人、行方不明3155人の総てに人と家族の人生に光をあてられなかった無力さこそを書くべきではないのだろうか。
2012年3月11日 - 16:57 webから

毎日新聞東京日日新聞に先祖返りをしたようだ。死亡が確認された人びとの名前を別刷で総て紹介しているが、戦争報道と同じヤリクチではないか。名前の羅列だけではなく、どんな小さなことでも良い。その人がどういう人であったかに触れた文章を書くべき。それこそ「趣味・読書」でも良いから。
2012年3月11日 - 17:05 webから

毎日新聞は意図的に一面で被災者の「笑顔」を写真に使っているが、同紙が実施した被災者アンケートでは復興を「難しい」とする被災者が過半数を占めているという。一面で安易に「未来へ」などという言葉を見出しで使える情況に被災地はないはずだ。新聞は結局1945年8月15日を総括していない。
2012年3月11日 - 17:13 webから

朝日新聞の「天声人語」はもう1年なのか、まだ1年なのかを自問し「もう1年」を選択する。被災地から遠く離れ、かつ民衆の生活からも遠く離れた高給取りからすれば「もう1年」なのだろう。「もう1年」という認識は「天声人語」氏が東日本大震災を「思い出」に変換してしまったからではないのか。
2012年3月11日 - 17:19 webから ·

「人間は究極、人間に関わる一切の事物に単なる傍観者ではありえないからだ」とは竹中労の言葉だが、朝日新聞の3月11日一面を埋め尽くす言葉は総てが傍観者の言葉である。記者という「個」をここまで消し去った一面を作るということは朝日新聞の思想がファシズムと親和性が高いことを証明している。
2012年3月11日 - 17:31 webから

東京新聞一面で伊集院静が書いているように震災はまだ続いているのだ。自らを安全地帯に置いて復興だと騒いでいるのはマスメディアの商業主義のなせるワザであって、それ以外の何ものでもない。最愛の人の死を悼むことのできない人すら被災地にはいるはずだ。「筆洗」はその辺りを踏まえて書いていた。
2012年3月11日 - 17:43 webから

東京新聞原発事故にこだわり続ける姿勢は評価したい。当事者の発言で埋めた今日の二面、三面は大変、参考になった。原子力安全・保安院次長が水素爆発は勉強不足で思いもしなかったとは!要するに原発と戦争をする準備を日本は何もしてこなかったということか。私たちは原発との戦争に敗れたのだ。
2012年3月11日 - 17:50 webから

福島第一原発の事故で原子炉の注水にコンクリポンプ車を提案した出口秀夫さんが朝日新聞にその話を提案すべく行ったところ、守衛に羽交い絞めにされ追い返されたと東京新聞で発言している。讀賣も同様に門前払いしたようだが、まさにマスメディアの本性を象徴しているのではなすだろうか。
2012年3月11日 - 18:00 webから

日経の「春秋」。「この間、どれだけの言葉が発せられたか」「言葉が問われた1年でもあった」。その通りだと思う。当然、日経がどんな言葉を発してきたかを問うべきだろう。しかし、社説では首都圏の「減災」について語るばかりであって、今も震災の渦中にある東北三県は無視してしまっている。
2012年3月11日 - 20:25 webから

産経新聞の社説に福島の「フ」の字も出て来ないのはどうしたことか。東日本大震災は「天災」で終わらなかったことは周知の事実だろうに!福島第一原発の過酷事故は間違いなく「人災」であった。犠牲者の霊をなぐさめることもできずに流浪を強いられている「原発難民」に対する想像力が欠如しているのだ
2012年3月11日 - 20:30 webから

産経新聞では「産経抄」でも福島には触れずじまい。自ら「原子力ムラ」の一員であることを告白しているようなものである。といって反原発運動の被曝ファシズムを告発するわけでもない。東日本大震災は一口に「災害」と言って片付けられないという認識はお持ちでないらしい。
2012年3月11日 - 20:37 webから

terumasa imai ‏ @0702terumasa 閉じる
被災地の瓦礫処理が一向に進まない。東奥日報の社説が指摘しているように被災地とそうでない地域を分断してしまった。その根底にあるのは「原発事故の罪深さ」である。それは情報公開を怠った東京電力と政府の罪深さでもある。どうせ一席をぶつのであれば、そこまで言うべきだろう。
2012年3月11日 - 20:42 webから

河北新報の社説。「喪失感を癒すには短すぎ、困難を耐えるには長すぎる日々だった。『もう』と『まだ』が交錯する」という一文は自らは安全地帯に身を置き続ける天声人語氏に捧げたい。朝日新聞原発事故でも最悪事態に脅えるしか能のない新聞であった。コンクリポンプの提案も蹴ってしまうほどに!
2012年3月11日 - 20:53 webから

河北新報の「河北春秋」。「生き残った者でも、叫びながら津波に流されていく人を見て、あまりの衝撃に立ち直れない人がいる。生きていく気力を無くし、自殺した知人がいる」。震災は終わっていないことに全国紙は何故に気がつかない。その鈍感さは「ただの人」を繰り込むことを放棄しているからだ。
2012年3月11日 - 20:59 webから