断片の昭和史(3)牧口常三郎の信仰について

牧口常三郎折伏を受け日蓮正宗に入信したのは昭和三年(1928)六月のことである。牧口、五十七歳の時である。白金尋常小学校の校長を務めていた。
牧口が柳田國男とともに新渡戸稲造が明治四十三年(1910)に発足させた郷土会の常連であったことはよく知られている。二人はこの国の「周縁」に向けるまなざしを共有していた。北海道における僻地教育、即ち周縁における教育に取り組むことで牧口は『人生地理学』を構想し、上京後の明治三十六年(1903)に上梓する。そこに躍動するのは地べたの思想であった。
「人間は地上に生まれ、地上に棲息し、地に育てられ、地に啓発せられ、地上に活動し、地を利用し、ついに地に死骸を遺して逝く」
明治四十三年に上梓した『遠野物語』をもって柳田は言うなれば、「周縁の民衆史」を発掘すべく民俗学を立ち上げる。
「要するにこの書は現在の事実なり。単にこれのみをもってするも立派なる存在理由ありと信ず」
二人のその「学」の現実社会との係わりにおいて牧口を特徴づけるのが近代合理主義に他ならず、柳田を特徴づけるのは近代に対峙することも厭わないロマン主義に他ならない。しかし、信仰に向かったのは柳田ではなく牧口であった。柳田は牧口の折伏を拒絶する。昭和十五年七月三日、柳田の別荘にて二人は一夜にわたって法華経について語りあったと言われている。牧口は柳田を折伏すべく柳田の別荘に乗り込んで行くも失敗したということだろう。
こう言えるのかもしれない。牧口の近代合理主義が辿り着いた先が信仰であり、その信仰の共有を断固として拒絶させたのが柳田のロマン主義であったのだと。牧口は自らの老いをものともせず信仰にひたすら邁進する。恐らく―。牧口は日蓮正宗との出会いによって、牧口を特徴づけていた近代合理主義が日蓮の主張した「娑婆即寂光」の世界観に激しく感応し、官能することで化学反応を起こしたのである。日蓮正宗日蓮解釈に導かれるようにして、昭和五年十一月に創価教育学会を設立するとともに『創価教育学体系』第一巻を完成させる。教育の目的とは「幸福」の実現である。
「真の幸福は、社会の一員として公衆と苦楽を共にするのでなければ得る能わざるものであり、真の幸福の概念の中には、どうしても円満なる社会生活ということが欠くべからざる要素をなすことが容易に承認されよう」
牧口は日蓮の「娑婆即寂光」の世界観に「善」と「幸福」の一致を見て取ったのである。「善」の最高形態は仏の功徳を人々に与える「大善」であり、「大善」の実践は法華経にひたすら帰依することによって可能になり、「大善生活」によって「歓喜」は実現されるのである。牧口にとって「教育」と「信仰」を分け隔つ壁は、もはやない。折伏による弘宣流布こそ民衆の「幸福」を実現するのだ。昭和十一年に発表された創価教育学会綱領には、こうある。
創価教育学体系を中心に教育学の研究をなし、国家百年の大計たる教育の徹底的革新を遂行し、且又それが根底たる宗教革命をなすを以て目的とす」
昭和十六年十二月八日、「大東亜戦争」開戦。牧口はこの戦争に別に反対するわけではなかったろう。牧口を単なる平和主義者に祀り上げてはなるまい。この国の未曾有の国難に際し、殉国の大精神にして、世界の指導理念は法華経に他ならないことをますます確信すればこそ牧口は折伏に飛び回っていたのである。牧口は神札を祀ることを日蓮正宗の教義に反するとして頑として拒否しただけなのである。牧口にとって日本の神々は感謝の対象であっても、信仰の対象ではなかった。そもそも万世一系ということは天照大神の諸神は現人神たる天皇に帰一しているということであり、神札を祀ることは万世一系天皇を二元的に考える矛盾に陥ってしまうのではないか。
そんな牧口すら当時の軍国主義に染まる国家権力からすれば許さなかったのである。昭和十八年七月六日の朝、牧口常三郎折伏に訪れていた伊豆・下田にて治安維持法違反、不敬罪を問われる叛逆者として逮捕される。国家権力は牧口ばかりでなく、創価教育学会の幹部を根こそぎ逮捕してしまったのである。その数、二十一名。昭和十九年十一月十八日、牧口常三郎は老衰と栄養失調のため東京拘置所の病監にて静かに息を引きとった。享年七十三歳。その三十八日前、牧口の三男・洋三が戦死。軍国主義の狂気は牧口常三郎から靖国神社に参拝し、「よくぞ国家の為に働いて下さった、有難うございます」と感謝の心を現す機会さえ奪ってしまったということである。