ソーシャルメディアと資本主義について

ソーシャルメディアが依拠する「経済」は共有や贈与という、資本主義からすれば「呪われた部分」(バタイユ)に他ならない。しかし、そうはいってもソーシャルメディアも資本主義から完全に自由なわけではない。共有や贈与の経済はそれだけで自立することはできないのだ。むしろ、ソーシャルメディアにおける共有・贈与の経済は資本主義を土台に据えない限り生き続けられないといって良いだろう。
この私のブログを例にとろう。私は「はてなダイアリー」を使ってブログを立ち上げた。もちろん、ブログをアップするに際して「はてな」には一円の使用料も払っていない。字数制限もないから、毎日のように書きたいことを書きたいときに書きたいだけ書いている。現在のページビューは5万6000。それなりのユーザーが存在しているということだ。しかし、もし「はてな」が消滅してしまったら、どうなるのか。このブログもその時点で消滅してしまうことになる。
言うまでもないが「はてな」が消滅しないという保証はどこにもない。「はてな」はレッキとした京都に本社を持つ株式会社なのである。利益が出せなくなり、赤字が累積してゆけば、会社が倒産するのは当たり前の話である。事情はツイッターでも、フェイスブックでも同じはずだ。ツイッターにしても、アカウントを取得するのは無料であり、書きたいときに140字以内で書きたいことを書いている。しかし、ツイッターというプラットフォームのビジネスが立ち行かなくなったならば、当然、サービスを中止することになるというものだ。
ソーシャルメディア直接民主主義のツールとして様々な可能性を孕んでいることに間違いはないが、ソーシャルメディアといえども市場経済の鉄則に根っこの部分で晒されざるを得ないということである。しかも、プラットフォームの大半は広告収入に支えられたビジネスモデルであり、この点はマスメディアのビジネスモデルと同じなのである。プラットフォームが広告ビジネスのあり方を変えることはあっても、プラットフォームが広告から自由になることはあるまい。そうであればこそ、これまでマスメディアがほぼ独占していた広告マーケットをプラットフォームビジネスが侵食しはじめたから、マスメディアのビジネスが苦境に追い込まれているのである。
もちろん、「はてな」が倒産しても、ツイッターがサービスを中止しようが、世の中からソーシャルメディアが消滅するということはあるまい。そう簡単にテクノロジーの歴史は逆流しまい。むしろツイッターフェイスブックがサービスを中止するという局面は、ツイッターフェイスブックよりも、ユーザーにとってもっと魅力的なプラットフォームが出現したときに訪れるのだろう。そして、それはソーシャルメディアが資本主義のあり方に変化をもたらしてしまったときに出現するのかもしれない。つまり、ソーシャルメディアがライフスタイルの変化をもたらし、そうしたライフスタイルの変化が資本主義に修正を加えるということだ(そういう意味で私は「低コストでモノを持たず、場所や時間に縛られない」ノマド的生活とお金にはならないけど誰かのためになる仕事を提唱しているイケダハヤトを注目している)。ソーシャルメディアという上部構造が資本主義という土台のあり方を変える。そのような現在進行形の歴史のダイナミズムのなかで私たちは生きているということである。私は決して妄想を述べているわけではない。