新聞とソーシャルメディア マスメディアという資本主義はソーシャルメディアの共有、贈与に耐えられるか?

新聞、テレビといったマスメディアの編集や報道と名のつくセクションに働く、自称他称かはいざしらず、ジャーナリストとは、何か特別な資格をもってジャーナリズムを担っているわけではない。酒場で酔いも手伝ってか、ジャーナリストでございと胸を張ったところで、彼らがサラリーマンという意味では私(たち)と何ら変わるところがない。
もちろん、胸なんぞ張らずとも謙虚に酒精を楽しむ輩も少なからず存在するが、それでも彼らの多くは私からすれば奇妙な特権意識の所有者であると言わざるを得ない。それはマスメディアが編集(能)力を独占していることに起因する。マスメディアは莫大な投資を必要とする設備産業だが、この装置を背景にすることなしに編集(能)力は駆使できなかったということである。このことがマスメディアに従事するサラリーマンに錯覚やら倒錯をもたらすことになった。奇妙な特権意識の正体である。一定の年齢に達すれば国民の誰もが「国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関」たる国会の議員を選ぶ選挙に際して一票を投じる権利を持っているという意味では、誰もが「権力の監視役」であるはずなのだが、あたかもマスメディアだけが「権力の監視役」であるかのように会社も、社員の一員たる記者も揃いも揃って錯覚、倒錯してしまう。
一票を持った国民が一票をもって、そのような委託をマスメディアにしているかといえば「否」である。そのような錯覚、倒錯が例えば資本主義を前提とする19世紀型メディアの典型である新聞の啓蒙主義の正体である。「上から目線」による「教えてあげましょう」方式での報道を支えているし、大東亜戦争や昨年の福島第一原発の事故に際して見られたようにメディアとしての公共性をいとも簡単に放棄して国家権力の方針に寄り添ってしまうのである。ちなみにマスメディアが後生大事に守り続けている記者クラブ大日本帝国の「総力戦」を担うべく結成されたという歴史的事実も忘れてはなるまい。
マスメディアが独占的に担ってきた報道は、そこに偏向があっても、恣意性にもとづいて書かれていても、ジャーナリズムとして劣化していようとも、思い込みにしか過ぎない論説であっても、総ては「正論」なのである。無謬性に自縄自縛された「正論」は、だからこそ「一般意志」と乖離していようとも、それが「世論」であるかのごとく流通させてしまう。マスコミュニケーションとは、そのように「権力的」なのである。マスメディアに依拠する少数者が大量の情報を記者クラブを通じて独占し、その大量の情報を編集方針のもと選別、選択したうえで一方的に民衆に伝達するという垂直軸に支えられたコミュニケーションであるということである。マスメディアが可能にするマスコミュニケーションは「国家のイデオロギー装置」の役割を担うに最適なのだ。三権がマスメディアを「国家のイデオロギー装置」として重宝することで、マスメディアは第四の権力の座を掌中におさめる。マスメディアからすれば民衆は操作の対象でしかなくなる。
しかし、民衆はそうしたマスメディアの「報道と隠蔽」の構造に気がつき始めたのである。インターネットの発達、ソーシャルメディアの登場によって編集(能)力がどんな「個人」に解放されはじめた。ツイッターフェイスブック、ブログと誰もが簡単に自分のメディアを持てるようになったのである。原稿料はタダだが、使用料がタダであることによって、情報発信する時間さえあれば、誰もが個人の資格でメディアを手にできる。どんな「私」であるかを選ばず、「私」は情報発信者であり得るし、情報受信者であり得る。もちろん、情報発信者に徹することもできるし、情報受信者に徹することもできるし、両立することもできる。総ては「私」=「個人」の選択に委ねられる。
かくいう私なども、こうしてソーシャルメディアを活用している一人に他ならない。ソーシャルメディアはマスメディアのマスコミュニケーションの立場からすれば表層的にはコントラコミュニケーションに見えるかもしれない。しかし、ソーシャルメディアをよく観察してみるならば、「反」という垂直軸を選択していないことがわかる。ソーシャルメディアにおける最良のコミユニケーションは水平軸に支えられていると言って良いだろう。しかも、この水平軸は「個人」をマスメディアの呪縛から解放する力学を孕んでいる。ツイッターなどでマスメディア批判、マスコミュニケーション批判が溢れかえっているのは、このためであるし、ソーシャルメディア直接民主主義のツールたりうるのも水平軸の力学によるものである。
ソーシャルメディアの出現によって新聞を頂点とする(わが国では!)マスメディアの特権的な立場が揺らぎ始めたのである。マスメディアの限界もあらわになってきた。マスメディアは資本主義によって支えられたビジネスである。つまり、ビジネスとしてしかマスメディアは存立基盤を有さない。しかし、ソーシャルメディアは資本主義社会の枠内にあっても、資本主義とは別の原理で動きつつある。確かにプラットフォームはビジネスに他ならないが、プラットフォームという資本主義を母胎にして、資本主義的価値観とは趣きを異にする贈与の経済、共有の経済が生まれようとしているのだ。原稿料も使用料もともにタダであるということは、このように理解すべきなのだ。ソーシャルメディアでは「社」ではなく「個」が問われるのである。
しかも贈与の経済、共有の経済に依拠するソーシャルメディアはマスメディアが独占していた「知の体系」を万人に解放しようとしている。ソーシャルメディアは「著作権」を解体する可能性を孕んでいる。マスメディアが発信する情報は「生産物」であるのに対し、ソーシャルメディアが発信する情報は、言ってみれば「蕩尽物」なのである。例えば私のブログでもエントリした内容の全文が他のブログに登場することもある。ソーシャルメディアNapsterが切り開いたファイル共有ソフトの「理念」を継承しているのだ。フェイスブックを支援したのはNapsterのショーン・パーカーであったちことを忘れてはなるまい。マスメディアがアダム・スミス的であるのに対し、ソーシャルメディアジョルジュ・バタイユ的であると言って良いのかも知れない。ソーシャルメディアは自由と平等の間に横たわる非対称性を修正する契機を胚胎しているという意味において、直接民主主義と親和的なのである。
私は1月27日のエントリで朝日新聞社ツイッターの記者アカウント(むろん会社が公認したアカウントだ)を公開したことについて触れたが、2月11日付毎日新聞が「つながる:ソーシャルメディアと新聞」という記事の中でアカウントを公開した朝日新聞の西本秀記者を取り上げていた。

アカウントを公開した一人で、メディア担当の西本秀記者は「目の前にいる人に話すように、きちんと関係を築きたい。記事を書くように真剣に言葉を選び、社会人として、なるべく率直に考えを伝えようと思っている」と語る。また、新聞との連携の可能性については「記者が発信できる情報はもっとあるのに、今は社会に届いていないのではないか。ソーシャルメディアと補完しあう関係ができると思う」と話した。

毎日新聞小川一記者が新聞とソーシャルメディアとの「協働」について書いた記事について、私は2月2日のエントリで違和感を述べたが、西本秀記者は新聞とソーシャルメディアの「補完しあう関係」に言及する。よし仮に新聞というマスメディアとソーシャルメディアの双方が「補完」しあっての「協働」が可能であるとしても、新聞というマスメディアがその経済合理性という利益獲得を目指す損得勘定を大きく後退させることなしに新聞が(一方的に)理想とするようなソーシャルメディアとの間の「補完しあう関係」は成立しないし、「協働」などできないはずである。それが資本主義のリアルというものである。