毎日新聞「ソーシャルメディアと新聞」の小川一に問いたいこと

2月18日付毎日新聞の「つながる:ソーシャルメディアと新聞/下」によれば、同紙は14日に東京本社でソーシャルメディアを考える研究会を開いたそうだ。その場でコンテンツ事業本部次長の小川一毎日新聞の報道の特徴は「公開」「個性」「共感」にあるとという認識を示したらしい。もっとも、それは小川の私見にしか過ぎないことをツイッターで明らかにした。

毎日新聞の報道姿勢を「公開」「個性」「共感」としたのは、あくまで私の私見です。「記者の目」が始まった当時、ジャーナリズムの常識は「客観報道」「無署名記事」でした。それを打ち破った先輩たちの心意気をぜひ若い人に伝えたかったのです。

私のような新聞記事を読む立場にある者からすると、新聞記事を書く立場にある小川とは違って、毎日新聞の報道の特徴が「公開」「個性」「共感」にあるとは特段に思えないのだが、新聞に問われているのが「公開」であり、「個性」であり、「共感」であるという認識それ自体に異存はない。そうであればこそ私が、小川や小川の属する毎日新聞に限らず、総ての新聞とそこに属する新聞記者諸君に問いたいのは福島第一原発のシビアアクシデントに際して、新聞は何故に「公開」も、「個性」も、「共感」もかなぐり捨ててしまって、「大東亜戦争」中になされた大本営発表を鵜呑みにするような報道に終始したかである。新聞は、毎日新聞は、小川一は自らのジャーナリズムとしての限界を露呈せしめた東日本大震災における「報道と隠蔽」の問題それ自体を隠蔽してしまうことにどうして不感症でいられるのだろうか。それが新聞の「政治」だとでも言うつもりなのだろうか。そういう「政治」を解体する力学を孕んでいるのがソーシャルメディアである。
東日本大震災の報道に際し、新聞・テレビといった記者クラブに依拠するマスメディアの報道は、その写真や映像から「死者」を排除してしまった。震災における最大の被害者たる「死者」を報道から疎外してしまったその理由を説明した新聞、テレビがあったであろうか。否である。ベトナム戦争の報道と違って、湾岸戦争からアフガン戦争、イラク戦争に至るアメリカの戦争を報道するにあたって「死者」が抜け落ちていたことの「模写」が3.11で行われたのである。
福島第一原子力発電所放射性物質を撒き散らしながらの暴走に際して、新聞やテレビの記者は「現場」から、それこそ護送船団方式で逃げてしまったが、その事実をその理由とともに説明したことがあるのか。否である。そのどこに「個性」があるというのか。被災地を社名の入った腕章をつけて闊歩する居丈高ぐらいにしか「個性」はなかったろうよ。そんな「個性」に私は「共感」できない。新聞やテレビは、毎日新聞はゲンパツから遠く離れて、ゲンパツのことばかりを報道した。そこに「個性」はなかったし、逆にメディアとしての公共性すら欠如させてしまっていた。挙句の果てに「放射能」騒ぎに迷走する。朝日も、毎日も、讀賣も、私にはそのようにしか見えなかった。それでも仰々しいだけの社説を毎日掲げる新聞に私は嫌悪感すら禁じえなかった。2011年3月11日から数ヶ月にわたっての報道を検証することなしに何がソーシャルメディアとの「協働」だ。「公開」などどこを探しても何もなく、総てをなかったことにしようというのでは虫が良すぎるというものだ。
「過去」はなかったことにしてしまい(「過去」を都合よく切断し)、「未来」に幻想だけを抱く(毎日新聞のコンテンツ事業本部次長のごとくソーシャルメディアとの「協働」を謳う)という思考のあり方は脆弱だし、ジャーナリズムとして危険だ。「現在」を検証、点検し、「過去」と照らし合わせながら総括したうえで、解決すべき「問題」を抽出していきながら、「未来」をリアルに構想する。報道に携る今の新聞に最も欠けていることのように思えてならない。
吉本隆明が60年安保後の1961年に書いた「前衛的コミュニケーションについて」の口吻を真似ていえば、私の新聞に対する最大の不満は読者を記事によって啓蒙されることを待っている何者かと考えていることだ。読者は具体的に生活している誰かではあっても、啓蒙されることを待っている誰かではないのだ。新聞は読者の生活実体に対等に向き合っていないのである。そういう啓蒙性において新聞はサンケイ新聞から東京新聞にいたるまでことごとく「左翼的」なのである。どんなにソフトな文体を偽装しようが「前衛的コミュニケーション」に頽廃しているのだ。民衆を、民衆の生活を掴み損ねているのだ。私は『新大陸vs旧大陸』に書きとめた。新聞という売文業者がとかく品性下劣なのは「市井に生まれ、そだち、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値と全く同じである」という認識を欠如させているからにほかならない、と。新聞記者といえども、いや、新聞記者なればこそ「ただの人間」でなければならないはずだ。本来、ジャーナリストとは「ただの人間」であることにおいてプロフェッショナルであるべきなのだ。主権は官僚や記者にあるのではなく「ただの人間」にあるのだということを大新聞は忘れてしまっている。だから、「社」が「個」を消してしまうことに恥じないのだ。つまり、「ただの人間」の原イメージを繰り込めない、言い換えれば「ただの人」に開かれてゆく契機を持ち得ない新聞に市井に生まれ、そだち、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の「ただの人間」に基盤を置くソーシャルメディアとの「協働」などそもそも不可能なのである。せいぜい大阪市長橋下徹のツイートに右往左往するのがオチであると言うべきか。私は『報道と隠蔽』で次のように書いた。

朝日新聞のようなマスメディアは「ただの人間」を隠蔽する。「ただの人間」を隠蔽しながらフクシマから遠く離れてゲンパツを妄想する。
「新聞はフクシマで何も見ていない」

毎日新聞もまた然り。小川一という「個」がどう考えているのか知りたいものである。