放射性セシウムの「1キログラム当たり100ベクレル」という新基準値について 

私の身体は私のものであり、私の欲望もまた私のものである。近代市民社会は「欲望の体系」にほかならない。ヘーゲルあたりは、こんなところから「しかし」と議論を始める。しかし、「私の欲望」が無制限に行使されたならば、「他者の欲望」を抑圧することにもなりかねない。「私の欲望」と「他者の欲望」は価値をめぐって対立せざるを得ないのだ。そこで近代国家は「権力」によって侵犯され得ない「私の欲望」を「権利」として「私」に保証し、「私の欲望」が「権利」として発動する「私利私欲」を「法」によってできる限り肯定する。この「できる限り」の重心や尺度をどこに置くかをめぐって争われるのが、さしずめ「政治」ということになろう。ちなみに対立する「私の欲望」を共存させる「法」を実現する「政治」もあるはずである。
5月1日付東京新聞の一面を飾ったのは放射性セシウムの新基準値が適用されて一ヶ月で「9県52品目 100ベクレル超」という記事であった。

食品中の放射性セシウムの新基準値が適用されて一日で一カ月。一般食品で新基準値(一キログラム当たり一〇〇ベクレル)を超えたのは、岩手、宮城、山形、福島、茨城、栃木、群馬、千葉、神奈川の九県の五十二品目・三百四十二件に上ることが四月二十七日時点の本紙の集計で分かった。検査数は一万三千五百七十三件で、新基準値超えは約2・5%だった。
一〇〇ベクレル超えの食品のうち、三月までの暫定規制値(同五〇〇ベクレル)を超えたのは、岩手、宮城、福島、茨城、栃木、千葉の六県の十九品目・六十七件。
新基準値になったことで、出荷停止の対象となる品目や地域が増えたことになる。

もともと食品衛生法には放射性物質に対する明確な規制がなかった。しかし、福島第一原発の過酷事故によって放射性物質が大量にばら撒かれたため、厚生労働省は一般人の被曝限度を5mSv/年として独自に策定した1キログラム当たり500ベクレルという、あくまで暫定の規制値を自治体に通達していたが、より一層、食品の安全と安心を確保するため、ICRPが平常時の一般人の被曝限度を1mSv/年としていることから、これを踏まえて4月から1キログラム当たり100ベクレルという「正規」の規制値を導入することになった。その結果、出荷停止となる品目や地域が増えたことを報じている。つまり、それまでの暫定規制値であれば出荷できた品目でも新規制値になったことで出荷できなくなった品目もあったということである。生産者サイドからすれば、3月までは大丈夫であったのに何故4月からは出荷停止しなければならないのかとやりきれない思いに駆られた生産者もいたに違いない。水産物は特にそうであったようだ。東京新聞はこう書いている。

新基準値の影響が最も表れたのは水産物で、暫定規制値では出荷停止の対象とならない魚種が相次いで一〇〇ベクレルを超えた。多くは福島の魚で、メイタガレイサクラマスアイナメなど。福島沿岸での漁は全面自粛になっている。
茨城ではシロメバルやヒラメ、ギンブナなど六魚種が新基準値で出荷停止に。宮城はスズキやヤマメなど三魚種、群馬はヤマメが出荷停止になった。栃木、千葉の一部の淡水魚も超えた。

ここはまず自らの「私の欲望」を述べることから始めたい。食品による内部被曝に関して言えば私は新規性値が導入されても暫定規制値であった「1キログラム当たり500ベクレル」の食品を食べても良いと考えている。それが一定の科学的な知見をベースにした「私の欲望」である。参考までに記すと欧米における野菜や魚、肉など一般食品の規制値は1キログラム当たり1200〜1250ベクレルである。私からすれば新規制値は被曝リスクを過剰評価しているとしか思えない。もし「1キログラム当たり100ベクレル」を超える食品であっても、何ベクレルかを明示していれば出荷できるとすれば「私の欲望」は実現されることになる。これは、それほど難しいことではないはずである。
逆に「私の欲望」において「1キログラム当たり100ベクレル」であっても食品による内部被曝は危険だと考える生活者もいることだろう。そうした「私の欲望」も尊重されて然るべきだと思う。「1キログラム当たり50ベクレル」という独自の規制値を打ち出す業者がいるのは、「1キログラム当たり100ベクレル」であっても食品による内部被曝は危険だと考える生活者が決して少なくはないことを示唆している。
むろん、「1キログラム当たり100ベクレル」であれば、それで良しとする「私の欲望」も相当ぶ厚く存在することだろう。
私が思うにどの「私の欲望」が正しいかを争っても仕方のないことである。どちらの「私の欲望」も実現してしまえば良いのだ。「1キログラム当たり500ベクレル」という暫定規制値を正規の規制値としたうえで、ベクレル表示を義務づければ、「1キログラム当たり100ベクレル」を超えても良いという「私の欲望」も、「1キログラム当たり100ベクレル」でも危ないと考える「私の欲望」も対立せずに共存できるはずなのだ。そうすれば生産者サイドにおける「私の欲望」も最低限、尊重されることになるだろう。しかし、そうした共存を否定する「政治」を日本は選択してしまった。4月1日以前であれば食べられた食品を「法」によって禁じたのも農林水産省が新規制値よりも厳しい独自規制値をもって商売することに自粛するよう求める通知を出したのもこの国の同じ「政治」である。「私の欲望」を自己決定権として尊重しないという意味においては同じ、近代以前の「政治」であるということだ。「私の欲望」に民主主義を奉仕させきっていないのである。
「私の欲望」とは自ら判断し、自ら選択し、自ら決断することである。