一九五八年(昭和三十三年)八月二十日午前十時十五分、最初の電話が読売新聞社の社会部に入る、声の主は「特ダネをやろう」と喋りだす。「女を殺した、太田芳江さんだ。小松川高校のアナに投げ込んできた」。記者は場所を問い返す。「アナだ」と繰り返し、ガチャンと電話を切る音が記者の耳に飛び込んだ。読売新聞は、二つの事実を確認する。確かに小松川高校定時制二年生の太田芳江が十七日午後から出たきりになっていること。犯行を伝える声の主は゛アナ゛と言ったが、小松川高校に地下室はなかった―。
二度目の電話は翌朝二十一日午前七時十五分に小松川署にかかってきた。電話の内容は読売新聞社にかけられた文句と同じだったが、場所が特定される。高校の屋上の南から二番目の暗渠と。゛アナ゛は屋上にあったのだ。電話から十五分後、電話の通り小松川高校屋上のスチーム管の暗渠のなかで腐乱死体を発見。小松川署は警視庁捜査一課と鑑識課の応援を求め調べた結果、死体の状況から他殺と断定。被害者は黒の学生用スカート、白靴下、白靴、行方不明となった当時のままであったが、家を出たとき所持していた百五十円と網の手提げがなくなっていた。
二十二日午後五時にも読売新聞社へ電話がかかる。「太田のクシを持っているから送り返した。オレはウブじゃない。前にも一度人を殺したことがある。結婚に破れて―」。そのクシは二十四日朝、葬儀の最中に太田宅に配達される。二十六日午後八時十五分の電話は全く開き直ってふてぶてしい調子。「いまね小松川警察に電話かけたよ。7時半に小岩郵便局に行ってね、そこのポストに寺本捜査一課長あてに手紙入れたよ。なかにね、被害者の鏡と写真三枚、それからブンメンが入っているんですよ」。
読売新聞社にかかってくる電話のなかにはイタズラ電話も含まれていた。例えば上野駅からかけているという犯人を自称する電話の内容が紙面を大きく飾ったこともあった。
二十八日午前七時三十四分。「昨夜の上野の男はデタラメだ。犯人はオレだ」と゛長い電話゛がかかってくる。「もうこれきり新聞社にも警察にも電話しない」と、これが最後の電話であることを示唆したうえで―。
「オレはねェ、これを考え出したのが夏休みに入る前さ。夏休みは七月二十日からだよ。殺人決行を決めたのは、一週間前だ。オレは被害者の紙まで一枚も残さずまとめて持って帰った。指紋を残さないためさ。それくらい冷静だった。完全犯罪だよ。これで二度目の完全犯罪さ。もう危ないからやらないつもりだけど三度目は予告するよ」。前の殺人!?やはり若い娘なのか。「そんなことは言えねえよ。ヤバイからな」。犯行は二人?「オレは一人だよ。そういえば屋上で死体から証拠物品をとっていたとき二人の話し声がかすかに聞こえてきた。オレは死体に三十分ほど腰かけてやりすごしたよ」。いつ殺した?「言えないよ。アリバイ確定してしまうよ」。殺しの動機は?「それは言えないよ。バレてしまうじゃないか」。君はどこにいるのか。「小松川警察署前の公衆電話ボックスだよ。もう聞くことはないか、会社が八時からだから遅刻しちゃうよ」。探偵小説に興味があるのか?!「ないよ。世界文学は好きだ。プーシュキン、ゲーテ、特にゲーテの『ファウスト』の一部がいい。ドストエフスキーの『罪と罰』は言葉のアヤといい全く迫力があるね。しかし断っておくけどこれから暗示は得ていない。無意識で頭の隅にあるかどうかは判らないけどね。じゃ切るよ。もうかけないよ」。
この電話は二十九分間に及んだ。日本電々公社(現NTT)が江戸川区小松川公会堂前の公衆電話からであることを明らかにし、電話が切れてから二分後にパトカーで駆けつけたものの犯人らしい姿はなかった。読売新聞社が録音していた電話の内容を、警察庁は十分間にまとめ各放送局に流して、都民の積極的な捜査への協力を呼びかけることにする。二十九日正午のニュースでNHKなどから一斉に放送された。
事件発覚から十日後の九月一日午前五時、江戸川区上篠崎町一三〇〇朝鮮人部落内、日雇人夫・李仁竜(当時十八際)を殺人の疑いで自宅で逮捕。李はニンンマリと笑い「とうとうやって来ましたね。やはり完全犯罪は敗れましたよ・・・」と述べた後で「後に残る両親や兄弟が本国へ送還されることのないよう考えてくれ」と半聾唖の母親(当時三十九歳)を振り返ったという。李は直ちに本事件犯行と、同年四月二十一日の工場賄婦をしていた田中せつ子(当時二十四歳)殺しの犯行も自供。
李珍宇は昭和十五年(一九四〇年)二月二十八日、東京市城東区(現・東京都江東区)亀田の貧しい朝鮮人部落で生まれる。東京の空襲で焼け出されてから千葉県市川市と江戸川をはさんで向かい合っている江戸川区篠崎の現在の集落に移る。そこはトタン屋根に石を置いただけの粗末なバラックであり、天井から裸電球がぶらさがり、壁には雨漏りを防ぐべく新聞紙がべったりと貼られ、家の外には家を支えるようにぶどうの枝が伸びているという環境、ここに親子八人で暮らしていた。小学校時代も、中学校時代も、お金がなく遠足に行けなかったという。中学では教科書が買えないので筆写した。成績は良かったが、貧困が李を盗みに走らせる。本を買うお金がなく、図書館で借りて読んでいたが、好きな本を手もとに置きたくなり、図書館から外国文学書五十二冊を盗んでしまう。家庭裁判所から書籍、自転車、腕時計等の窃盗で保護観察処分を受ける。
就職にあたっては一流企業の日立製作所、第二精工舎に願書を提出しようとするが、朝鮮籍を理由に拒否される。李の十八年間の人生を二重の疎外構造がおおいつくしている。日本人社会から朝鮮人として疎外され、朝鮮人部落内でも、その最底辺に追いやられ孤立していた。兄の勤める鉄工所に就職したが体調を崩し二カ月で退社。一九五六年(昭和三十一年)四月から墨田区内のカメト製作所にプレス工見習いとして入社。一九五八年(昭和三十三年)四月からは小松川高校定時制に入学する。
李珍宇は『婦人公論』(一九五八年十一月号)に手記を発表し、そのなかで「日本人の中にいて、民族的な差別感というものを、あまり味わったことがありません」と書いている。その一方で読売新聞社の懸賞小説に応募し、その小説『悪い奴』の主人公である゛俺゛は゛変な目゛で周囲から見られている。この゛変な目゛の正体は間違いなく差別の視線であろう。いつも゛変な目゛の存在を意識しながらも、民族的な差別感を味わったことがないと書かざるをえないところに゛二重の疎外構造゛の本質が横たわる。李珍宇は゛変な目゛を意識しているがゆえに日本人であることを徹底的に演じてきたからこそ、民族的な差別感をあまり味わわずに済んだのである。逮捕されるまで李が朝鮮人であることは友人の誰ひとりとして知らなかった。李珍宇は中学校時代に生徒会長をつとめている。しかし、貧しさを消すことはできず、中学二年の頃には満足に食事をとることができず、百日近く学校を休んでいる。
犯行を自供した李珍宇だが、その動機については「わかりません」と答えるばかりであった。起訴状では動機を゛性欲゛に求める。
「第一、昭和三三年四月二十日午後七時十五分頃、自転車にて入浴からの帰途、東京都江戸川区鹿骨町前沼橋附近路上において自転車にて東方に向う田中せつ子を認め、これに追従して東進するうち、にわかに劣情を催してこれを姦淫しようと企て、同区上篠崎町一九一七番地、通称浅間道路上で同女に追付き、これを道路脇、田圃に押し倒して馬乗りとなり両手指にてその咽喉部、頸部を絞殺して同女を仮死状態に陥らしめた上、これを姦淫したが間もなく同女が蘇生し遽かに逃出したので、更に情欲を遂げるため同女を捉え、押倒して馬乗りとなり、前同様両手両手指をもってその頸部を扼し、再び同女を失神させてこれを姦淫し、因て同女をして右扼頸により間もなく同所で窒息死に至らしめ、
第二、同年八月一七日午後六時頃、小松川高等学校に赴き、同校屋上に到ったところ、午後六時二十分頃、偶々同校定時制二年生徒太田芳江が同所で一人読書しているのを認めるや、にわかにこれを姦淫しようと企て、やにわに同女の片腕を捉えて所携のナイフを突き付け脅迫しつう、屋上時計台附近まで連行したところ、同女が大声を発したので、犯行の発覚を虞れると共に情欲を遂げるため、咄嗟に同女を殺害せんと決意し、同女を押倒し、両手指におてその頸部を緊扼し、更にこれを屋上西側スティーム管防護壁内部に運び入れ、前同様両手指にてその頸部を扼し、所携の日本手拭をその頸部に捲きつけて絞扼した上、同女を姦淫し、因て同女をして右頸部圧迫により即時、窒息死に至らしめて殺害の目的を遂げたものである」
゛姦淫゛という二文字を中心にして書きあげられた起訴状だが、しかし、李珍宇は第一審の公判において姦淫の目的はなかったと否認する。検察の取調べにおいて検察官からこうだろうと言われて、同意してしまったのだと。第一審第五回公判で李珍宇は太田芳江殺しについて、こう述べる。
「・・・自分がやったかどうかおかしくなってきたんです。自分のあれは夢ではなかったかと思ってきたんです。それなら、あそこへ行ってみればよかったんですが夢の中で行われたようで自分も穴には行きたくなかったんです。それで自分の考えをただすつもりで新聞社に電話をかけたんです」
また、こうも書いている。
「私がそれをしたのだった。それを思う私がそれをした私なのである。それなのに、彼女達は私に殺されたのだ、という思いが、どうしてこのようにヴェールを通してしか感じられないのだろうか」(『李珍宇書簡集』)
動機がないどころか、李珍宇の゛リアル゛は二つの殺人事件の犯行を捉えることは遂にできなかった。李珍宇が犯行を認めた自白さえも疑ってみる必要があるのではないだろうか。ここでも李珍宇が殺人者を演じている可能性が間違いなくある。在日朝鮮人李珍宇が日本人金子鎮宇を演じていたように、李珍宇は「小松川女子高生殺人事件」の犯人であることを受け入れ、演じた。そして、犯人を最後まで演じきるために高裁の公判において゛姦淫゛を゛射精なき性交゛として認めてしまう。
文学を志向する李珍宇らしい表現である。この事件をモデルに多くの文学や映画が生まれている。しかし、大江健三郎や秋山駿らの一流の文学者が様々に発言したことに、この時代の文学はおろか゛政治゛の空気を嗅ぎ取ることができるのかもしれない。そもそも、この事件の裁判では物証が数多く存在しているにもかかわらず、公判が開始されると、そのほとんどが証拠から消えてしまう。加えて目撃者が証人として出廷することもない。李珍宇が犯人であることを立証するのは、李珍宇の゛言葉゛だけであったといっても過言ではあるまい。確かに李珍宇をシロとする証拠もないのだが、彼を絞首刑に至らしめる゛客観性゛もまた存在しないのである。読売新聞社へかけられた電話にしても、法廷において再検証されるべきだったのだ。
一九五九年(昭和三十四年)二月二十七日、東京地方裁判所の判決は死刑。東京高裁、最高裁とも棄却。一九六一年(昭和三十六年)八月一七日、太田芳江の命日に死刑が確定。一九六二年(昭和三十七年)十一月十六日午前十時、執行。李珍宇の犯した唯一の゛殺人゛であると断言できるのは、李珍宇自身を国家権力によって、この世から抹殺せしめたことであろう。いや、これとて正確に言うのであれば゛殺人教唆゛か。