断片の昭和史(14) 少年ライフル魔事件

片桐操(当時十八歳)は神奈川県高座郡座間町(現・座間市)の山道をぶらついていた。一九六五年(昭和四十年)七月二十九日午前十一時頃のこと。愛用のライフル銃を手にして。
神奈川県大和署に「猟銃を持ち歩いている男がいて危険だ」と市民からの情報が電話でもたらされる。同署鶴見派出所の田所康雄巡査(当時二十一歳)がひばりヶ丘付近で、怪しい男を発見。
片桐は言葉ではなく行動で応えた。銃で殴りつけ、ピストルを奪い取る。ピストルを取り戻そうと必死になる田所巡査。片桐は撃鉄を引く。胸に命中。銃声を聞きつけて菅原巡査、谷山巡査がパトカーで駆けつける。片桐は銃口を二人にも向ける。一発ずつ、二人の巡査の腹部を正確にとらえた。片桐は倒れ込んでいた田所巡査からピストル帯皮と警察手帳を奪い、制服をはぎとり警官になりすまして逃走する。田所巡査は病院に運ばれるが午後二時半頃死亡。菅原巡査は腹部貫通で重傷、谷山巡査は銃弾が運良く皮バンドに当たったため無事であった。
片桐操は十八歳の少年でありながら銃器を扱い慣れていた。片桐は昭和二十二ん弁四月十五日、東京都世田谷区に四人兄弟の末っ子として生まれた。小学生の頃から銃器に興味を抱き、ミニタリー雑誌『丸』の愛読者となった。
一九六二年(昭和三十七年)、長姉が卒業祝いで、三万五千円の二十二口径の五連発マスターライフルNO3と四千円の照準器を買い与えた。所持許可証は十八歳に満たない片桐にかわって姉名義とした。その後、射撃にひたすら熱中。後楽園や立川の射撃場に通って、腕前をあげていった。射撃とライフルを分解メンテナンスすることが唯一の生きがいだった。しかし、片桐には狩猟免許はなく、近くの山林でこっそり雀などを撃ち、゛実戦゛を楽しむしかなかった。そんな゛凶器の少年゛片桐の゛餌食゛に、田所巡査はなってしまったのである。
こうして、゛たった一人の戦争゛の幕が切って落とされた。警察官になりすました片桐は、犯行現場から百メートルと離れていない宮坂福太郎(当時三十三歳)方に現れ「警察のものだ。近くで撃ち合いがあり、犯人を追っているのでクルマを貸してほしい」と要請。片桐はまんまと宮坂が運転するマツダ軽四輪の後部座席に乗り込むことに成功する。こうして、たまたま巡り合わせた車を次々を強奪しながら人質とともに乗り換えながら、逃走を続けた。途中、カーラジオから検問のため警官三千人を配置したことを告げるニュースが流れる。片桐は「三千人対一か・・・」とつぶやいたという。片桐は大捜査網を巧みに突破、午後六時にロイヤル鉄砲火薬店の向いの渋谷消防署に到着。人質を車内に残してロイヤル鉄砲火薬店に乱入。店員の男女三人と女性店員の妹を人質にたてこもる。「銃と弾丸を出せ!」と叫んだ。
警察官数十名が同店内に踏み込もうとした時、ライフル銃の乱射が始まった。帰宅する通勤客でごった返す渋谷駅前での銃撃戦だ。片桐は人質に店内の銃を次々に持ってこさせた。
「豊和M1カービンを持って来い! これは三十連発だから弾を三十発つめろ!!」
鉄砲店の二階から、銃口を警察官に向け撃ちまくる。
各種の銃の性能を確かめるかのように発射し続けた。結局、逮捕までに総弾丸数百三十三発を片桐は試射でもしているかのように楽しむ。
片桐は人質を前に「オレは警察官を殺してきたんだ」とすごむ。その一方で自分の顔を鏡に写してはニヤける。冷蔵庫からビールを取り出し、ラッパ飲みをする。そして自ら一一〇番に電話をかけ「うるさいからヘリを飛ばすな。パトカーもどけろ」と怒鳴り散らす。「こうなったら、男も女も殺す。すべては警察の責任だ!」と言い放つ。
午後七時十八分、第一機動隊が催涙弾を放った。白煙に包まれる店内。耐えきれなくなった片桐は人質の女性3人を盾に裏口から飛び出す。この時、人質の男性が隙をみてライフル銃の銃身で片桐の頭を殴りつける。片桐は転倒しながらも銃を撃ったが、五人の警察官が一斉に飛びかかり逮捕。
取り調べに際して、片桐はこう豪語している。
「いろんな銃を撃ちまくることができて、たまっていたものを全部吐き出せスカッとした気分だ。どうせ刑務所に入るんだろうから、代わりにベトナムに行きたい。ベトナム戦争で好きなガンを思いっきり撃つことができるのなら死んでもいい」
片桐は一審の東京地裁の判決で無期懲役、検察側が控訴した東京高裁で死刑判決。昭和四十四年最高裁で死刑が確定。昭和四七年七月二十一日、死刑執行。享年二十五歳。