木嶋佳苗被告の死刑判決を考える―練炭では暖められない寒さについて

北朝鮮が「人工衛星」を自称する長距離弾道ミサイル、防衛相の田中直記によれば「飛翔体」の打ち上げに失敗し、政府が大飯原発の再稼動を認める方針を打ち出した4月13日にさいたま地裁による判決は下された。死刑。三人の男性の不審死にかかわる裁判で被告は無実を主張し続けたが、判決は検察の主張を全面的に認め求刑通り極刑を言い渡した。三人の男性はいずれも練炭の燃焼による一酸化炭素中毒死であったが、三件とも被告が殺害したと認めた。また被告は三件の殺人罪以外にも六件の詐欺・詐欺未遂、一件の窃盗でも有罪となった。
しかし、自白も、目撃証言も、直接証拠もなく、状況証拠によって判断しなければならなかった難しい裁判であったことに間違いはあるまい。検察が「夜に星空が広がっていたのに、翌朝は一面の雪化粧。雪が降った場面を見ていなくても、夜中に雪が降ったのは明らか。誰かがトラックで雪を運んだ可能性はあるが、社会常識に照らせば合理的ではない」と主張したことには矢作俊彦が「朝、雪が積もってたら、降ったところは見ていなくても、夜半に降ったんだとするのが常識だって!映画のスタッフが夜中にトラックで運んだ可能性だってある。その可能性の否定を証拠立てるのが検察だろう」とツイートしていたように私も違和感を覚えた。読売新聞が4月15日付社説で書いていたように「警察は男性1人の死亡を自殺とみて、司法解剖しなかった。もう1人の事件では、たばこの火の不始末による失火で死亡したと判断」にもかかわらず、両件とも雪の喩え通りに殺人罪が一審では適用された。
木嶋佳苗さん、あなたには無実を主張する権利がある。そのことを私は否定しない。しかし、実のところ私は木嶋さんが三人を殺したかどうかにさしたる興味はない。殺人であろうが、自殺であろうが、事故死であろうが、不審死を遂げた三人の男性の心情に想像力を働かせるのであれば「純死」であったと思うのだ。「まさか」という無念に身を焦がしながら死んでいった「純死」である。オレを、オレだけを愛してくれていたのではなかったのかという「まさか」である。三人の「純情」が死によって砕かれたのである。
木嶋さんと三人の男性は婚活サイトを通じて知り合った。三人とも木嶋さんとの結婚を本気で考えたはずだ。朝日新聞が公表した手記のなかで、「私は情事に対して、極めて真剣に私の流儀で取り組んできました」と書いているように木嶋さんからすれば、もしかするといつものことだったのかもしれない。しかし、三人の男性にとって、それは「情事」ではなかった。真剣であったに違いない。でなければ、1000万円もの残高の貯金通帳をあなたに渡すことなどなかったろう。木嶋さんにとっては「うそを言ってお金を受け取ることは許されると思っていた」のだろうが、三人が三人とも木嶋さんが「うそ」を言っているとは思いもしなかったのではないか。木嶋さんから「あなたのために」と言われれば、その言葉を信じきった。木嶋さんと結婚すれば「鈴が鳴るようなソプラノ声」(北原みのり『女性セブン』年4月26日号)を独占できるものと信じた。信じて疑わなかったはずだ。
私は決して木嶋さんのことを「ふしだらなオンナ」だと検察のように考えない。出会い系サイトで知り合った複数の男性と関係を持ったからといって、それだけで責められるものではないだろう。ベッドの上でしか自分の「生」を実感できなかったのだろう。派手な金銭感覚にしても、それだけで後ろ指を指されることはないだろう。問題なのは死んでいった三人の男性が木嶋さんのことを複数の男性と同時並行して関係を持てるような「ふしだらなオンナ」だと思いもしなかったことではないのか。三人は木嶋さんを愛した。三人は木嶋さんの「愛」も確信していたはずだ。経歴詐称など、そんな小さなうそはお嫁さんになってくれるなら構わなかったはずだ。そんな「純情」を木嶋さんは拒絶した。三人は優しさを偽装したうそに騙され、「純情」を踏みにじられ、そして死んでいった。私にはそう思えてならないのだ。
言っておくが「純情」に年齢は関係ないし、いい年をして何が「純情」だなどと外野から揶揄してはなるまい。切実な「純情」なくして人は誰かを愛することなどできないはずだ。木嶋さん、あなたがベッドの上の戦場で育んできた「欲望」はそんな「純情」を木端微塵に粉砕したのだ。しかし、そのことに罪悪感はあるまい。男たちだって自分に都合の良いことを言っているだけで、結局、本質は自分と同じなのだろうとあなたは考えてはいなかったか。人を騙さなければ、人から騙されてしまう世の中なのだ。だからバレなければ何をやっても良いのだと。木嶋さん、あなたには他者の痛みに対する想像力が決定的に欠けていたのではないだろうか。そもそも世界に「私」を開こうとしなかったのだろう。遂に誰に対しても「私」を開かずに、ただいじけていただけなのではなかったか。

私は子供の頃から、誰に対しても深いところまで心や意識を開いてなかったので、他人にわかるはずがありません。常に期待に応えることに必死になって生きてきて、私には伸びやかな子供時代がなかったように思います。

朝日新聞が入手した手記にある文言だ。誰に対しても心を裸にできないまま大人になったことが手記の言葉を借りれば「自由奔放で浮世離れした暮らし」をエスカレートさせ、「ファンタジーの世界で生きることに逃避」させたのだろう。逆に言えばセックスという背徳と男からカネを引き出すという背信にしかリアルを見い出せなくなったのだろう。「空洞を埋める」とはそういうことだと私は理解した。そんな生き方が木嶋さんを疲れさせ、「結婚」に救いを求めた。しかし、木嶋さん、あなたは背徳と背信の迷路から抜け出せなかったに違いない。その犠牲となったのが三人の男性だ。彼らは木嶋さんとの結婚を本気で願った「純情」から解放されることなく、命が絶たれてしまったから「純死」なのである。
かつて吉本隆明は「存在倫理」という言葉を使ったことがあるが、「存在倫理」という考え方を導入して考えてみるならば、もしかすると「純死」を遂げた三人の男性には木嶋さんを殺すべき憎悪と憤怒の「動機」があったはずである。その人間の痛みをともなった、実行されても少しも不思議ではなかった「動機」に木嶋さんは「無実」を叫ぶ前に震撼すべきである。そう愛が「神聖なる狂気」であることに驚愕すべきなのだ。誰かがトラックで雪を運んできたにしても、他者の痛みに対する想像力をとことん摩滅させたままの人生のどこになおも「人間」として生き続ける意味や価値があるのだろうか。「愛情とはからだとからだをよせて、さむさをあたためあうことなのだ」と喝破したのは詩人の金子光晴である。木嶋さん、練炭では暖められない寒さがあるのだよ。