様々な「なりすまし」について

怖い話である。ネット社会ならではの事件である。インターネットに犯罪予告を書き込んだとして逮捕された三重県大阪府の男性が「事件と無関係の可能性があるとして釈放された」(毎日新聞)。二人のパソコンに第三者が二人のパソコンを遠隔操作できる「なりすましウイルス」が感染したことがわかったのだ。そこまで判明して「事件と無関係の可能性があるとして釈放された」と書くのは、新聞が警察発表なり、検察発表に従って書いたからなのだろうが、こうした書き方は釈放された二人からすれば不愉快きわまりないものであろう。「事件と関係がある余地」を否定していないのだから。
三重県の男性は28歳、無職であり、伊勢神宮爆破を予告する書き込みをしたとして三重県警に逮捕され、大阪府の男性は42歳のアニメ演出家であり、大阪府のホームページに大量殺人の書き込みや日航機爆破を予告する電子メールを日本航空に送ったとして逮捕された。しかも、アニメ演出家の場合は偽計業務妨害罪で起訴されていた。新聞が「事件と無関係の可能性があるとして釈放された」と書いたのは、アニメ演出家が既に起訴されていたことと無関係ではあるまい。検察が起訴を取り消すにあたっては、書き込んだのが本当にアニメ演出家本人でなかったこと確認してからになるということだ。新聞などの報道によればアニメ演出家は逮捕されてからも一貫して「心当たりも身に覚えもない」と無実を主張していたにもかかわらず起訴された。アニメ演出家の主張を警察も、検察もハナから信じていなかったとしか思えない。このようにしてコイツが犯人だと頭から決めてかかることによって冤罪は簡単に創造されるのである。検察は警察の捜査を鵜呑みにし、裁判所は検察の調書を鵜呑みにする。冤罪でマスメディアで報道されるのは殺人絡みの裁判ばかりだが、冤罪は軽犯罪も含めれば意外と多いのかもしれない。これもまた他人事ではない怖い話である。被逮捕者の権利を守るためにも取調べの全面可視化は絶対に必要なことだろう。私もあなたもパソコンが「なりすましウイルス」に感染し、逮捕され、いくら無実を主張しても、IPアドレスを唯一の証拠に起訴されてしまう可能性は確実にあるのだから。
いったい真犯人は誰なのだろうか。「なりすましウイルス」を感染させ、パソコンを遠隔操作していた「第三者」が犯人である可能性が高いわけだが、いったい真犯人はどのような人物なのだろうか。第三者によって書き込まれた内容は「8月5日にオタロード(大阪の電気街である)で大量殺人をする。歩行者天国にトラックで突っ込む」。秋葉原の無差別殺人事件の「再現」を妄想していたのだろうか。「成田発ニューヨーク行き日本航空006便に爆発物を仕掛けた」とはテロリスト気取りかなのか。こうは書き込んだものの何も起こしていないことを考えれば、大量殺人も飛行機爆破も「本気」ではなかったのだろう。「愉快犯」ということになろうか。自分のしたことで、世の中がパニックとなり、挙句に遠隔操作していたパソコンの持ち主が逮捕されるに至る一連の経過を自らは安全な場所にいて、ほくそ笑んでいたのだろうか。犯人からすれば世の中を騒がせ、社会の秩序を混乱させ、他人の人生を不幸に陥れることのどこが面白かったのだろう。それとも自分が自らの力量で「世界」をこれだけ動かしたのだという充実感にひとり浸かって悦に入っていたのだろうか。彼もしくは彼女にとって、自分が生きているんだという、「生」の感触はそうまでしてしか手に入らなかったものなのかもしれない。どんな「生」の感触も「世界」との関係性において実感するものだが、「愉快犯」の場合、この関係性が「普通」に耐え切れなくなったか、「普通」に満足できなくなったか、「普通」を獲得し損なったかして希薄化するか、切断されてしまったのだろう。ここで私が言う「普通」とは、学校に行き勉強をし、就職して働き、彼女と恋愛し、結婚して家庭を持ち、子供が生まれ、子供を育て…やがて老いて死んでゆくという「ありふれた」、しかし、どこにもあることによって「幸福」な人生のことだ。犯罪とは多くの場合、「普通」の殻を破り、他者や社会に危害を与えるほど、自己表現を突出させることだが、「愉快犯」は自己表現そのものではなく、その結果が「世界」に与える動揺や衝撃をメディアを通じて確認することで「快楽」を得る。「世界」に認められない限り、その犯罪なり行為は目的を達成したことにならないのである。そうして共同性から疎外された「孤独」を恢復するのである。「愉快犯」は「孤独」を必ずやどこかに抱え込んでいるはずだし、その「孤独」には時代の傷が刻み込まれているはずだ。もちろん、私たちからすれば、それは甘ったれたひ弱な「孤独」、自分勝手な「孤独」に過ぎないのかもしれないが、当の本人の無意識にとっては深刻で救い難い「孤独」なのである。
犯罪ならずとも「なりすまし」という行為は、「私」を放棄することでもある。「私」を放棄することでしか「孤独」を恢復できない「悲しみ」が「なりすまし」には貼りついているように思えてならない。iPS細胞を作り出すことに成功した山中伸弥ノーベル賞を獲得し、それまで誰もが知っていたとは言い難いiPS細胞があっという間に流行語となったけれど、ネットでは山中の「ノーベル賞キターー」というツイッターでの書き込みが好感度をもって多くの人々に迎え入れられた。しかし、これは誰かの「なりすまし」であることが判明した。この「なりすまし」が巧妙なのはノーベル賞が決まる以前から山中伸弥になりすましていたことである。8月9日にはツイッターを立ち上げ、8月29日には「すごい発見をしました。近々ご報告をします」とツイートしているのだ。こうした書き込みが功を奏して「ノーベル賞キターー」のツイートに多くの人々が騙されてしまったのである。この「なりすまし」氏は快哉したに違いないが、そこに私は言いようのない「悲しみ」を感じてしまう。ソーシャルメディアの誕生は「誰でもメディア」の時代を実現したが、誰もが注目を集めるとは限らない。デジタルの世界に「繋がり」を求めてソーシャルメディアを始めて見たは良いが、現実の世界以上に「孤独」を感じてしまうこともまたあるのである。「私」に対する反響が「私」が期待していた通りにあれば、別に誰かに「なりすます」必要はない。山中伸弥になりすました誰かも「孤独」に病んでいるのだ。「釣り」にしても同じである。ツイートの内容がウソかホントであるかは関係がない。ただ多くの人々に注目されたいのである。
確かにメディアはマスであろうとも、ソーシャルであろうとも、その裏側に「釣り」の欲望を孕んでいる。オーソン・ウエルズがラジオで宇宙人襲来を叫び、パニックを起こしたことがあるが、そういう意味では「なりすまし」ツイートはオーソン・ウエルズのエピゴーネンにほかならない。しかし、ソーシャルメディアではマスメディアと比較にならないほど、「釣り」や「なりすまし」が跋扈している。「誰もがメディア」の時代とは、「私」の「孤独」が「釣り」の欲望を増幅させるのだ。しかし、そのようにして他者を騙すことで獲得した反響がどんなに大きくとも、その反響が「快楽」であっても、実は「私」に何の変化も訪れない。リアルでも、デジタルでも「孤独」なままだ。次なる「なりすまし」、次なる「釣り」をゲーム感覚で求めても、「私」という問題が根本的に解決されることはないのだ。言うまでもなく「なりすまし」とはウソをつくことであり、他者や社会を騙すことであり、そのことによって「私」をも裏切る倒錯したナルシズムにほかならない。
讀賣新聞のトップが東京新聞中日新聞を「左」に偏向しているとプロ野球クライマックスシリーズで切って捨てたらしいが、讀賣新聞東京新聞も(共同通信が配信したそうだ)仲良くハーバード大学医学部客員講師を自称する男の言を簡単に信じて(検証することなく、である)、「あらゆる種類の細胞に変化できるiPS細胞から心筋の細胞を作り、重症の心不全患者に細胞移植する治療を6人の患者に実施したことが分かったと報じ」(讀賣新聞)てしまった。この男性はネットのデジタルな世界ではなく、現実のこの世界で「なりすまし」を実行してしまったようである。もし、これが事実なら山中のノーベル賞受賞に続く大ニュースなのだが、結局は誤報であった。iPS細胞による世界初の臨床応用に成功した男になりすまし、自らマスメディアに働きかけたところ、これに一部のマスメディアが飛びついて、大々的に報道された時点で彼の「なりすまし」は成功したが、あっと間にウソがばれてしまったのである。「繰り返される虚構こそが、受け容れられる真実となる」と喝破したのはレーニンにほかならないが、男は自分のウソがバレないと思っていたのだろう。マスメディアの取材力を甘くみていたに違いない。朝日新聞毎日新聞は男のウソを次々に暴き立てた。やがて誤報であることを読者や視聴者に詫びたマスメディアも加わり、あらゆるマスメディアが揃いも揃って、この男のウソを糾弾しはじめた。ニューヨークで開催され、3時間にも及んだという記者会見の一部がテレビで報道された。私が辟易したのは、男の「なりすまし」の挫折ではなかった。マスメディアの「なりすまし」に反吐が出るほど辟易したのである。ニューヨークでの記者会見は、マスメディアが「検事」に「なりすまし」ているとしか思えないほどの糾弾の激しさに私は辟易した。マスメディアならではの「釣り」の欲望を発動させ、マスメディアが「正義」に「なりすまし」ているのもまた怖い話である。マスメディア自身による誤報がなければ、こうした「なりすまし」はあり得なかったはずである。