ツイッター記者について私が知っている二、三の事柄part3

もしツイッター記者が新聞(=会社)のためにツイートをしているのであれば、即刻ツイッターから撤退したほうが良いだろう。何故かって?それは少しも新聞(=会社)のためにならない徒労で終わるからさ。ツイッターの本質は「私というメディア」であり、「私のメディア」に他ならないのだ。その「私」よりも会社(=新聞)を広く、深く捉えているかぎり、ツイッター記者はツイッターの可能性を遂に「理会」(竹中労の造語。出会い+理解の意味)できまい。ツイッター記者がツイツター記者として自立するためには「会社人間」から解放される必要があるし、誤解を恐れずに言えば「新聞記者」からも解放されるべきなのだ。誰にも開かれていて、誰もがメディアであるというツイッターにおいて職業的な特権意識に胡坐をかいていては「自由な言論」の実践など望むべくもあるまい。ツイッター記者はツイッターというソーシャルメディアを組織(=新聞)の不自由や不合理、理不尽を突き崩すツールとして自在に使いこなすべきである。会社(=新聞)の尻馬に乗ってツイッターを使うのはやめるがよろしかろう。さて、一昨日のつづきをはじめるとするか。
澤康臣は共同通信社の記者。プロフィールにはこうある。

Yasuomi SAWA
@yasuomisawa
記者です。拙著「英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか」よろしくお願いします。http://bit.ly/ezQJdB *見解は全て個人的なもので所属組織団体と一切関係ありません  Journalist. Working in New York for Kyodo News, Japan's news wire. New York ·

なるほど、現在はニューヨークで仕事をしている国際派か。『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』という書物も刊行しているだけに、自著にかかわるツイートも多いが、次のような光市事件の死刑判決の報道で元少年に関して新聞が実名派と匿名派にわかれた際のツイートが私には印象に残っている。2月21日のツイートであり、少し古いが紹介しておこう。ちなみに私は国家や社会をどれだけ開くことができるかが民主主義の課題であると考えている。

光市事件、報道は元少年被告の実名切り替えが多いようだ。十分議論が必要だが、死刑という重大な制度があり、その対象者(死刑囚)の名前が社会で共有されないのは不透明極まりなく危険な在り方と思う。悪人だから名前をさらせという意味ではなく。

死刑囚が誰であるか、誰が処刑の対象であるかは「専門家が知っていればいい」のではなく、もっと広い関心と議論の中におかれてこそ透明な社会だと思う。むろん当人側のダメージは問題で、これはバランス論というほかない。刑事手続きの公開はすべて同様の問題をはらむ。

国家による刑罰というのは重大な危険を伴うもので、本人がイヤかどうかとは別に、誰がそれを受けようとしているかも公表しきちんとした関心を集めなければならないというのが歴史的な知恵ではないだろうか。その上で、冷静で深い議論をするようでありたいと思う

市民の自由なき独裁が貫徹された国家を描いた小説「1984」では、思想警察による逮捕は「まず裁判はなく、逮捕も公表されない。ただ人の姿が消えるだけ」。誰がどう逮捕されたかが公表されないのが、著者ジョージ・オーウェルの暗黒社会の描写なのだった。

ニュースは歴史の第一稿(ワシントンポスト元社主フィリップ・グレアム)だ。歴史的な重要事件なのに、誰の事件、誰の裁判か分からないのは記録(ジャーナル)として不十分だと思う。死刑裁判はやはり歴史的事件というべきだし、まして今回は少年事件への死刑適用で重大な論争があった

一方で報道は時に人を傷つけ、多くのものを奪う。それをどう受け止めながら仕事をするかということでもあると思う。

澤のツイートはどれも落ち着いている。しかし、それは新聞記者としての「枠組」を逸脱しない範囲でしかツイートをしていないということでもある。会社サイドからすれば、こうしたツイッター記者こそ大歓迎なのだろう。
匿名の「ぴー記者」はプロフィールも簡単明瞭である。

ぴー記者
@p_kisha
地方紙の2軍。ほぼ戦力外。
西日本 · http://twilog.org/p_kisha

「2軍」も「戦力外」もシャレなのだろう。ただ地方紙の記者であることは間違いあるまい。昨年7月28日には「朝日新聞の通信部記者のような余生を送りたい」とツイートしていた(笑)。次のツイートは上杉隆批判。

記者クラブという、業界の人以外はよく分からないマニアックなテーマだったから、嘘や捏造がばれにくかったんだと思う。原発事故という非常に多くの人に関係するテーマを取り上げたから、あっけなく嘘や捏造が可視化されてしまった。

確かに上杉が福島報道でミソをつけたのは間違いあるまい。しかし、だからといって記者クラブのあり方が正しいということはないだろう。次のようなツイートで「ぴー記者」自身も「ありゃだめだと思う」政治記者を育んできたのは記者クラブにほかなるまい。

共同会見で持論を長々とぶちまけてたベテラン政治記者って、普段の取材でも相手の話をロクに聞かずに持論を語ってるんだろうな。正直、ありゃだめだと思う。2011年8月30日

また次のような姿勢は新聞記者ならずとも大切であるし、記者クラブという仕組みに対しても「『分かった気になっている』ことが本当にそうか疑うことも」必要なはずだ。上杉あたりを批判していればすむ問題ではないはずだし、記者クラブに関しては歴史的な総括も避けて通ってはならないものだと私は考えている。

分かったふりをしないのは大切。さらに「分かった気になっている」ことが本当にそうか疑うことも。5月9日

新聞社のお偉いさんでツイツターを駆使しているのは東京新聞で論説副主幹をつとめる長谷川幸洋ぐらいのものではないだろうか。長谷川のアカウントは「@hasegawa24」である。読売新聞の橋本五郎とか、朝日新聞若宮啓文とかもツイッターをやれば良いのだ。ソーシャルメディアを通じて、どれだけ個人を開けるかどうかは、ソーシャルメディアによって編集力が間違いなく解放される方向にある現状において、マスメディアにとって避けては通れない課題なのではないか。週刊誌に掲載された自身のスキャンダルが事実無根であれば、自らがツイッターで堂々と反論すれば良いのだ。そうすることで、その個人が属するマスメディアの信頼性も高まるというものだろう。そういう意味で論説副主幹の長谷川幸洋がツイツターに参戦していることは元気な東京新聞を象徴しているのだ。

ほんというと、ぼくはぶち壊したいね。いまのキレイキレイなスタイルばかりの言論状況。外圧改革論すら、みんなそれがホントと分かってるのに、だれも正面切って言わない。タブーばっかり。そんなんで、いいの?2011年11月5日

昨年、長谷川がニコ生でTPP討論番組の司会を引き受けた際のツイートである。私もそう思う。どんな問題でもそうだが、「タブーばっかり」の「キレイキレイなスタイルばかりの言論状況」には私もむかっ腹が立つ。これも昨年の8月16日にちょつと酔っ払って発表したツイートらしいが、ここで主張していることは本当にその通りだと思う。ある意味、長谷川のツイートは新聞記者らしくないというよりも、新聞記者にあるまじきところが小気味よいのだ。

メディアと政治家の関係について。メディアは報道と論評が仕事。政治家は政策の実現が仕事。「メディアは勝手なことばっかり言って無責任」という批判がよくあるけど、メディアは勝手なこと言うのが仕事。無責任と思われて支持されなければ、つぶれるだけです。ここははっきりしてる。

マスであろうと、ソーシャルであろうとメディアが死守すべきは「言論の自由」などという安っぽい言葉に決して回収されることのない「自由な言論」であることは間違いあるまい。

政治家が語る言葉は真実の半分だと思えば間違いない。残りの半分は絶対、語られないけど、そこをどう伝えるか。それがメディアのスキルだけど、残念ながら、そのスキルがあまりに未発達。だから読んでる人はなにがなんだかわからなくなってしまう。

原子力ムラ」ならぬ「報道ムラ」がマスメディアにおいては「自由な言論」を疎外しているのだ。こうした「ムラ」は「原子力」や「報道」に限らす、いたるところで幅をきかせていて、「タブー」の温床となっているというべきか。

メディアが勝手なことを言い始めれば、すごく面白くなると思うけど、残念ながら、勝手なことを言わない記者が多いね。政治家や官僚(つまり情報源)の立場、自分との良好な関係維持をおもんばかってる記者が多すぎる。それじゃ、ジャーナリズムにならない。

ただし、私が長谷川の意見に全面的に同意しているかといえば、言うまでもなく「否」である。だから引用したツイートは「個人」もしくは「メディア」の姿勢にかかわるものだけにバイアスをかけた次第。これが私の「自由な表現」である。
毎日新聞におけるソーシャルメディア推進の第一人者の役割を果たしている小川一については以前このブログでも取り上げた。http://d.hatena.ne.jp/teru0702/20120202/1328147586次のような小川のツイッター評価は、ソーシャルメディアをシロウトのメディア、あるいは胡散臭いメディアとしてしか理解できない記者連中よりはマシだろう。

Twitterにはデマを拡散させる面は確かにある。一方で誤報の訂正力、情報の汚染を食い止める消毒力もある。行政も風評を打ち消すツイートをもっと発信すべきだと思う。記者は風評の正体を追って福島県内や霞が関に何度も電話して担当者を探し回っている。信頼できるツイートがあれば安心できる。5月1日

次のようなツイートも正鵠を射ている。

私はこう答えることにしています。既存メディアが野球なら、ソーシャルメディアはサッカーです。プレーごとに監督が指示する野球と違い、ゲームをつくるのはピッチの上に立つ選手です。どこがオフサイドラインか、何がファウルか、選手が自分で体感するしかない。しかも審判は気まぐれ。4月20日

そう「既存メディア」に自立した「個人」が育ち難く、型にはまった報道が多いのは「プレーごとに監督が指示する野球」に他ならないからである。
[rakuten:hmvjapan:11124362:detail]
[rakuten:book:14677233:detail]

[rakuten:book:13825182:detail]