朝日新聞は『週刊文春』の記事が事実無根であれば、その広告掲載を拒否すべきではなかったのか?

5月9日付朝日新聞の9面に掲載された『週刊文春』の広告。そこにはデカデカと次のような特集記事のタイトルが掲げられていた。

朝日新聞主筆 女・カネ・中国の醜聞

このデカ文字タイトルの右横には「告発スクープ本誌直撃に『不徳の致すところ』だって」とあり、「主筆」というデカ文字の横には「若宮啓文氏」と記され、左横にはこう書かれていた。

石原都知事の「尖閣購入」を痛烈批判した若宮氏。この日本を代表するオピニオン・リーダーは、中国政府主催の自著の出版記念パーティーのため美人秘書同伴で訪中。しかも会社のカネを不適切につかったというのだから、開いた口がふさがらない!

この広告が朝日新聞の紙面を堂々と飾るということは、『週刊文春』の記事に朝日新聞はグウの音も出なかったに違いないと普通の読者であれば思うだろう。ところが38面には「週刊文春に本社が抗議 主筆関連記事をめぐり」という文章が記事と同じ扱いで掲載されている。そこにはこう書かれている。

朝日新聞社は8日、週刊文春が5月17日号で「朝日新聞主筆 女・カネ・中国の醜聞」の見出しで掲載した記事について、事実無根の記述で本社主筆と本社の名誉を著しく毀損するとして、謝罪と訂正記事の掲載を求める抗議書を同誌編集部に送った。
抗議書は、主筆の過去の中国出張をめぐる同誌の取材に対して本社が「社の経費を不正に使用した事実はない」と明確に説明したにもかかわらず、同誌が記事の見出し部分や本文で「不正」との事実無根の記述を繰り返し、主筆があたかも不正行為をしたとの印象を読者に与えたことについて「到底容認できない。厳重に抗議する」とした。

この社会面の小さな文章を読み飛ばし、9面の『週刊文春』の広告だけを見た読者からすれば「主筆」たる「若宮啓文氏」が「会社のカネを不適切につかった」ものだと誰だって思うことだろう。確かに朝日新聞の広告には「不正」という文字がなく、恐らく朝日新聞は広告掲載に際して「不正」を「不適切」に言い換えることで掲載を許可したのだろうが、「不正」と「不適切」の間に意味の雲泥の違いを読み取る官僚的な発想とは無縁な普通の読者の日々の生活に基盤を置いた「常識」からすれば会社のカネを「不適切に使う」ということは「不正」を意味することは間違いあるまい。
もし朝日新聞が言うように『週刊文春』の「不正」という記述が事実無根であるのならば、『週刊文春』の広告を掲載拒否することが読者の利益にも繋がるのではないだろうか。「不正」が本当に事実無根ならば『週刊文春』の広告は不当表示にあたり、読者の利益に供さないからである。
あるいは掲載拒否に及ばずとも、新聞における雑誌の発売を告知する広告の歴史を辿るならば、朝日新聞が事実無根だと判断した記事のタイトルを削らない限り広告主たる出版社に広告の掲載を認めず、すったもんだの挙句にその部分を「シロ」のままにして広告を掲出し、読者を驚かせたこともあったはずである。この物分りのよさをどう理解すべきなのか。
朝日新聞はそこに書かれた内容が事実無根の、しかも同紙と同紙主筆の名誉を著しく毀損するような広告であろうとも、カネになるのであれば良いと判断してしまったのだと推測することもできよう。中国のお偉いさんの口吻を真似て言うのならば、シロかろうが、クロかろうがカネになる広告は総て良いのだとばかりに!だとすれば朝日新聞は読者のためになるのであれば喉から手が出るほど欲しい広告=カネであっても拒否する「武士は食わねど高楊枝」という精神もまた摩滅させてしまったということになりはしまいか。
朝日新聞に限らず広告減は新聞の経営に多大なるダメージを与え続けている。新聞社の経営は広告収入によって支えられているのだ。