朝日新聞はこう読め!覚醒剤取締法違反(使用)の疑いで逮捕された文化くらし報道部記者の新谷祐一記者の書いた記事

1月13日日付の社説で『「小沢氏は検察にはめられた」と主張してきた人々は、これでも小沢氏を擁護するのだろうか』と言い放ち、小沢一郎に政治家失格の烙印を押した朝日新聞が今日2月23日付の一面に小沢一郎を登場させた。松田京平と星野典久による単独インタビューだという。しかし、残念ながら小沢一郎に政治家としての資格を問う内容ではなかった。消費増税を決断した野田政権に対して、もし野田が衆院解散するならば、選挙前の政界再編を示唆させるという内容であった。社説の言い回しを捩って言うのであれば、小沢氏は政治家失格だと主張してきた人々は、これでも小沢氏を非難するのだろうか!ということになろうか。政治家として失格だと断言した人物に政治家としてインタビューしているのだ。そうまでしても朝日新聞は「政局」に加担したいのだろうか。朝日新聞には政治家よりもタチの悪い政治家が揃っているようである。しかも、今日の1面ではサワリだけ紹介し、「詳報」は明日の朝刊に掲載するという。朝日新聞の商法であると同時に出し惜しみをすることで政治的効果を狙っているのは間違いのないところだ。小沢は何を言ったのか!と明日の朝刊まで永田町は大騒ぎするのだろう。
いずれにせよ、過去をなかったことにしてしまうのは新聞をはじめとしたマスメディアのお家芸とも言えるだろう。その一方でマスメディアは「なつかしさ」を捏造して来たと書いたのは文化くらし報道部に属する新谷祐一。新谷は京大の楠見孝(認知心理学)が約1200人を対象とする調査をもとに一昨年、発表した「過去に繰り返しふれた体験と、その後の長い空白が、なつかしさをもたらす」という研究結果を踏まえて次のように書いた。

近代になり、その仕組みを巧みに生かしたのがマスメディアだ。たとえば、華々しい活躍のあと沈黙を保つ山口百恵。そうしたなつかしさの大量消費の対象を、メディアは次々と供給してきた。
これは、ある意味で「なつかしさの捏造(ねつぞう)」かもしれない。 「〈想・記・伝〉なつかしさ 生きる原点」1月5日付

確かにマスメディアは「なつかしさ」を捏造して来たと私も思う。では、何故に「なつかしさ」を捏造してきたのか。マスメディアが「苦い記憶」を「なかったこと」として忘れ去り(排除、切断し)、「甘い記憶」にのみどっぷりと浸かってきたからに他なるまい。しかし、例えばYouTubeというソーシャルメディアの出現により、「苦い記憶」であろうと、「甘い記憶」であろうと、絶えず「現在」として晒される続けることになった。その結果、マスメディアが「苦い記憶」を排除し、「甘い記憶」にだけ依拠してしまっている現実が可視化され、マスメディアは人々から昔のような信用を獲得できなくなってしまったのだ。私はそのように考えるが、新谷は私のようには考えなかった。ソーシャルメディアの勃興が「なつかしさを共有する母体」を縮小させ、更には「なつかしさの熟す余地」を解体していると考えたのだろう、「なつかしさ」がマスメディアによって捏造されて来たことは脇に追いやり、「苦い記憶」を切除することで「なつかしさの熟す余地」が醸成されてきた「歴史」を総括することなく、「なつかしさ」の復興に加担する結論を導いた。新谷からすれば「震災、そして原発事故。故郷という、当たり前に肩寄せあって『なつく』べき場所を根底から揺さぶられ、あるいは失ってしまった」衝撃に目を奪われるばかりで、震災や原発事故において新聞がどのような「隠蔽」をして来たかは「苦い記憶」としてとどめおかれなかったということではないのだろうか。
昨日、朝日新聞は夕刊で新谷祐一の逮捕を伝えた。

警視庁は22日までに、東京都江東区白河1丁目、朝日新聞東京本社文化くらし報道部記者の新谷祐一容疑者(33)を覚醒剤取締法違反(使用)の疑いで逮捕した。調べに対して容疑を否認しているという。

毎日jp」によれば

逮捕容疑は2月上旬から18日に都内などで覚醒剤を使用したとしている。
渋谷署によると、同容疑で逮捕された別の容疑者が新谷容疑者の関与をほのめかしたため18日に新谷容疑者宅を捜索。同署に任意同行して尿検査をしたところ陽性反応が出たため緊急逮捕したという。捜索では覚醒剤は見つかっていない。

ということである。新谷容疑者は覚醒剤を使用したと疑われている2月上旬から18日の間に「朝日新聞デジタル」で検索してみると2本の記事を書いている。横浜美術館で開催された「松井冬子展」について「狂気や死の気配が息苦しいほど立ちこめる世界を、日本画の技法を生かし現出する」と書いたのは2月11日付の紙面。

「痛み」を描き続ける。「痛みは孤独な感覚で、他人には伝わらない。でも(絵という)視覚から得られる情報で、その痛みを共有できたら」。万人に伝わらないことはわかっている。「1万人に1人の割合でもズカンと真ん中に入れば十分。伝わると信じています」

2月18日の紙面では「恵比寿映像祭」を紹介している。

伊藤隆介の「Film Studies オデッサの階段」は、手前に小さく精巧な回り舞台、奥には小型カメラを介してそれを大写しに投影するスクリーン。乳母車は水平な道を動くのに、周りの風景をなす模型が傾きカメラも斜めなので、画面では階段を落ち続けるように見える。小と大、模型と画面を行き来するうち、見る側の感覚が宙づりにされ、映像という存在の不確かさに気づかされる。
まさに「目を引いた」のが、エキソニモの手がける参加型の作品「The EyeWalker」。体験する場所は、モニター数機が設けられた広場にある暗室。そこには1機のモニターがあり、画面には広場のモニターが映り込んでいる。そのうちどれか一つを見つめると、暗室内のモニターの映像は、見つめた先のモニターが映しだす広場の映像へと移る。こうしてモニターの映像は次々と切り替わり、いわば目の冒険ができるという仕掛け。目という存在の身体的(フィジカル)な側面を思い知らされる。

新谷容疑者の容疑が事実であったならば、作品ではなく覚醒剤をもってをもって自らを「狂気や死の気配が息苦しいほど立ちこめる世界」に身を置き、「見る側の感覚」を意識的に「宙づり」にしたり、それこそ「目の冒険」を実践していたということになろうか。そんな邪推をしてみたくなるような文章を新谷容疑者は得意としていたというべきか。「朝日デジタル」では新谷容疑者の撮った写真も見ることができる。東日本大震災の特集コーナーに宮城県震度6強の余震が起きた際に1階天井から大量の水漏れとなったJR仙台駅を4月8日午前1時2分に写したものである。この写真を見ていると「上手の手から水が漏れる」というたとえを思い出さずにはいられないが、新谷容疑者にとって朝日新聞はなつかしさとともに「甘い記憶」にとどめられることになるのだろうか。また朝日新聞にとっては「苦い記憶」として排除されてゆくことになるのだろうか。
ちなみにツイッターのアカウントを「朝日新聞デジタル」で明かした赤田康和は新谷祐一容疑者とWEB新書にもまとまった『ガラパゴスですけど、何か? 独自進化の日本文化』や『文学フリマが文壇壊す 〜揺らぐ「文化の権威」』で一緒に仕事をしているはずだが、同僚の逮捕について今のところツイートしていない。ツイッター記者として早くも限界を露呈してしまったということである。ここは同僚の逮捕について、どう思っているか呟くべきだろう。同僚の逮捕などなかったかのようにして「311企画」のPRに余念がない赤田康和はツイッターをPRメディア程度にしか認識していないに違いあるまい。ソーシャルメディアとは何かについて理解しているとは言い難いようだ。新聞という旧大陸は戦線を新大陸に拡大してもなお「甘い記憶」を貪るしか能がないのか!