朝日新聞の小沢一郎インタビュー ジャーナリズムとしての堕落が新聞を滅ぼす

昨日の一面で既に予告(PRとしたほうが正確か)していたように小沢一郎のインタビューが朝日新聞のオピニオン欄に掲載された。一面題字下で曰く「民主党小沢一郎元代表が動き始めた」。しかし、朝日新聞に登場すると、どうして「動き始めた」ということになるのだろうか。朝日新聞が認めなければ「動き始めた」とはならないのだろうか。朝日新聞に登場しなければ政治家として何もしていないと、この連中はお考えか。こういう言葉の使い方に朝日新聞というにとどまらず、マスメディアに巣食う連中のパワーエリートとしての「驕り」が見え隠れする。
しかも、インタビューの内容も昨日の一面PRである程度予測はできたが、社説で政治家失格の烙印を押し、「天声人語」で(民主)党内野党のボスと揶揄した人物に対峙しているはずなのに緊張感を欠いたものであった。橋下徹大阪市長が同欄に登場したときのほうがまだ緊張感が少なからず漲っていたように私には思えた。朝日新聞の得意とする「政治とカネ」の問題で切込みがあったわけでもないし、政治家としての資格をめぐって応酬があったわけでもない。インタビュアーは「与党担当キャップ」の松田京平と政治部次長の藤崎優朗の二人だが、鋭い突っ込みもなければ、核心を突いた質問もなかったということである。ここで小沢が語っていることに目新しさは何もなかった。

歌を忘れたカナリアはいらないんじゃないの。僕らはまだ歌を忘れずに歌っている。野田さんがもう一度考えを変えてピシッとしてくれることを望む。

要するに民主主義の原理主義者である小沢が言っているのは、民主党はマニュフェストの原点に戻れということである。これまでインターネットを通じて語ってきたことを朝日新聞でも繰り返し語っているだけであった。それでも朝日新聞小沢一郎を紙面に登場させた狙いは何かといえば、参議院議員でもある有田芳生が昨日の段階でツイートしていた通りであると私も思う。

朝日新聞が1面で小沢一郎インタビューを写真入りで掲載(詳報は明日)。「増税解散なら政界再編」「9月までには総選挙に」と見出し。無罪可能性が限りなく高まった4月末の判決を見越しての日和見紙面。事実上の社論変更だ。

「事実上の社論変更」とは、分かりやすく言うのであれば朝日新聞小沢一郎が手打ちをしたということに他なるまい。しかし、それはやくざ用語を使っていえば五分の手打ちではあるまい。朝日新聞小沢一郎に頭を垂れたとしか読者の立場からすれば見えないのだ。
小沢批判の急先鋒であった「主筆」の肩書を持つ若宮啓文は「社論」の、言ってみれば「転向」を納得しているのだろうか。若宮にとって自らの言論とはその程度に軽いものなのだろうか。若宮の言論を支持してきた読者に対する責任もまた軽いものであるのだろう。天木直人など朝日新聞小沢一郎に白旗をあげたのだとブログに書いている。

私がここで注目したことは、小沢一郎を徹底的に排斥してきた朝日の豹変であり、そのあまりの厚顔ぶりである。
いうまでもなくそれは小沢一郎復権と表裏一体だ。
とうとう検察審査会の強制起訴議決が、偽検察供述調書に誤誘導された疑いが出てきたとメディアで公然と語られるようになった。
しかもそれが検察の組織的作為だという疑義が持たれ始めた。
この検察組織の作為については、これから決定的証拠が出てくるとの驚くべき情報にも私は接している。
それが事実だとしたらこの国の検察組織は前代未聞の犯罪を組織ぐるみで犯したことになる。
戦後の政治史に残る一大国策犯罪が国民の目の前に露呈される。
そのドサクサにまぎれて、朝日は何の釈明も弁解もなく、小沢一郎とのインタビュー記事をさらりと掲載して、これまでの反小沢一郎ぶりを水に流そうとしているのではないか。
そしてそれは取りも直さずこの国の大手メディアの姿を先取りしたものだ。
朝日は小沢一郎に白旗をあげたのだ。

小沢一郎に政治家失格の烙印を社説で押したことは「なかったこと」にしてしまうというわけである。朝日新聞にあっては「未来」は「過去」の「苦い記憶」を噛み締めることなく、「なかったこと」にすることで切り拓かれてゆくのだろう。大本営発表に終始した3.11報道がそうであったように。新聞は経済的に滅びる以前にジャーナリズムとしての堕落が新聞を滅ぼす。そういう意味で小沢一郎へのインタビューは記念碑的な記事になるやもしれない。