私はこう考える!前原誠司の産経新聞取材拒否について

民主党前原誠司政調会長産経新聞に「言うだけ番長」というレッテルを貼られての報道にいたくご立腹らしい。産経新聞からすれば八ツ場(やんば)ダム建設中止にしても、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件でも「言うだけ」であった前原に田中康夫命名した「口先番長」を借りたまでのことだろう。
朝日新聞の社説によれば「5カ月余りで計16回」ほど使ったそうだ。そこで前原は2月23日、産経新聞に「取材を拒否すると通告、同日夕に国会内で開いた記者会見で本紙記者の出席を拒否した。さらに、民主党政策調査会への取材も認めないと通告」(産経ニュースhttp://sankei.jp.msn.com/)する。前原なる政治家は産経新聞に「言うだけ番長」とレッテルを貼られたぐらいで取材を拒否したり、記者会見への出席を拒否するという程度の人物であったということである。それ以上の話ではない。産経新聞が2月25日付の「社説」で書くように「産経新聞の報道内容を理由に、本紙記者を記者会見から排除し、取材拒否を通告したのは、日本社会の根源的な価値を否定していると言わざるを得ない」ほどの問題なのだろうか。
確かにこの「社説」の冒頭を「自由な言論こそ健全な民主主義社会の基本であること」と書き出し、たかだか法律用語でしかない「言論の自由」ではなく、敢えて「自由な言論」という言い回しを選択したことには全く異論がないし、まさに「自由な言論」こそ開かれた民主主義社会の基本であろう。しかし、たかだか取材を拒否されたことが「自由な言論」を脅かし、「日本社会の根源的な価値を否定している」ほどの大問題なのであろうか。私には理解しかねる。パニックを起こしているとしか思えないのだ。竹中労の次のような言葉を思い出さずにはいられない。

“自由な言論”を行使する以上、憎まれ抑圧され疎まれるのは、ものを破壊し人を傷つければブタ箱にほうりこまれるのと等しく、当為のことではないか。

記者会見に出席できないから、本人取材ができなくなったからといって、産経新聞が前原について何も書けなくなるわけではあるまい。取材にしても本人を取材できなくだっただけであり、「報道の自由の権利を行使」する方法などいくらでもあるきずだ。そのようにして「自由な言論」は鍛えられる。この産経新聞の「社説」にしても、「産経抄」にしても、その言い分は既得権にあぐらをかいている記者クラブメディアの単なる「甘え」なのではないだろうか。産経新聞に援軍の手を差し伸べた朝日新聞の2月25日社説にしてもそうだ。朝日の社説はこう結んでいる。

こんな政治家の振る舞いがあるたびに、社会で広くかみしめられてきた言葉がある。
「私は君の意見には反対だ。だが、君がそれを主張する権利は、命をかけて守る」
先人の、この名言を前原氏に贈る。

私などは「先人の、この名言」を朝日新聞産経新聞に贈りたい。産経新聞は「自由な言論」をもって前原を「言うだけ番長」と批判した。これに対して前原が産経新聞の取材を拒否し、会見から締め出したのは、前原の「自由な表現」であったと朝日新聞は想像できないらしい。「自由な言論」「自由な表現」は新聞の独占物ではない。産経新聞の取材を拒否し、会見から締め出したことは前原誠司にとっての「自由な表現」である。
朝日新聞が引用した言葉はヴォルテールの名言として広く流布して来たものだが、これにならえば、前原が定例記者会見への産経新聞記者の出席を拒んだことは、前原の意見に他ならず、朝日新聞がそうした前原の意見に反対であったとしても、前原がそう主張する権利は命をかけても守るという言い方も成立するだろう。
つまり、朝日新聞産経新聞前原誠司に締め出された一件を社説で仰々しく取り上げるのではなく、産経が追い出された段階で、自らも自主的に記者会見を退席し、民主党の会見を総て拒否するように他の新聞社や放送局、フリージャーナリストに呼びかければ良いだけの話ではなかったのか。
それができなかったからといって社説に逃げないでもらいたいものである。記者会見に出席しなければ紙面が埋まらないほど新聞はジャーナリズムとして退化しているということなのかもしれない。だから、産経が締め出された時点で前原の会見を自主的に退席した新聞はゼロであったのである。佐藤栄作が首相退陣の記者会見に際して、新聞は嫌いだと言い放ったことに抗議して記者団全員が退席した過去はお忘れか?