歴史ノート 一揆論のための覚書

土一揆徳政一揆

前年からの天候不順が続き、流行病が蔓延していた。室町幕府の第五代将軍・足利義量が早世し、義量の父で第四代将軍の足利義持も後継者を決めずに没したため第六代将軍・足利義教は何と籤引きで選ばれた。深刻な社会不安と幕府権力の空白状態に連動するかのように「日本開闢以来」の出来事が支配階級を震撼させる。正長の土一揆(1,428)である。
正長の土一揆を農民が起こした初めての一揆であると理解してはなるまい。それは「土民」の蜂起であると記されている。一揆の主体は「土民」に他ならないのである。尋尊の『大乗院日記目録』のあの有名な一節。
「一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑物等恣に之を取り、借銭等悉く之を破る。管領、之を成敗す。凡そ亡国の基、之に過ぐべたからず。日本開闢以来、土民の蜂起之初め也」
ここで言う「土民」を農民に短絡させてはならないのである。土一揆を農民闘争と単純に割り切るべきではないのである。そもそも正長の一揆は近江坂本や大津の馬借が徳政令を求めて八月に立ち上がったのが事の始まりなのである。農民も「土民」であり、馬借もまた「土民」なのである。半武士の国人・土豪といった上層名主層も一揆に結集しているし、正長の土一揆を皮切りに毎年のように多発する一揆の首謀者たる「張本」には武士身分が多かったのである。
九月十八日早暁、京都南郊・醍醐の民衆が蜂起する。実力をもって幕府に徳政令を求めたのである。正長の土一揆徳政一揆であった。
室町時代畿内近国では三毛作さえ珍しくなかったが、生産力の上昇によって農民の手元に残るはずであった剰余=加地子は、その多くが高利貸資本に吸い上げられた。そのため窮乏化へと追いつめられた農民・土豪らは、収奪された加地子得分の奪還を求めて、徳政一揆へと蜂起するのである」(今谷明
醍醐の一揆は幕府の軍事力を前にしていったん制圧される。幕府の実力者・細川持之の兵が醍醐三宝院の警固にあたり、侍所赤松満祐が山科に派兵したのである。一揆が息を吹き返すのは十一月に入ってからのことである。十一月四日、一揆は針小路猪熊に押し寄せる。東寺に籠城するなど、京都の各地に一揆は押し寄せた。十一月二十二日に一揆禁制の高札が掲げられるまで一揆は続いた。結局、幕府は徳政令を出すことなく近江に始まり京都に伝播していった一揆の鎮圧に成功したのだが、その民衆のエネルギーは畿内諸国にも伝染していった。
「正長元年ヨリサキ者カンヘ四カンカウニヲヰメアルヘカラス」
「柳生の徳政碑文」である。正長元年以前に関しては神戸四か郷の負債は一切ないという意味であり、勝俣鎮夫氏が指摘しているようにこの四か郷の民衆が一揆によって在地徳政を実現したのである。神部四か郷が属する大和国では十一月二十五日に興福寺が徳政令を出していることも忘れてはなるまい。しかし、何よりも忘れてはならないのは「徳政」というイデオロギーの本質である。「徳政」とは現状を「一新」し、「復古」による「再生」を実現しようとする政治イデオロギーに他ならないのである。あり得べき理想を過去に、それこそ神話的な世界にまで遡及して求めるのだ。わが国における革命や民衆の叛逆に通底して流れているのは、こうした復古主義なのである。後醍醐天皇による建武の新政がそうであったし、大塩平八郎の叛乱がそうであったし、明治維新もそうである。
正長の土一揆から十三年後、再び近江から「土民」の蜂起が始まった。嘉吉の土一揆(1441)である。その年の六月、将軍・義教が赤松満祐・教康親子に暗殺され、再び権力の空白状態が京都に生じる。民衆は、この機会を逃さなかった。当然のことながら、正長の土一揆の経験者も嘉吉の土一揆に加わっていたことだろう。そういう意味では正長の土一揆の京都における敗北の経験を充分に生かしていたはずである。「一揆」として政治的にも、軍事的にも成長を遂げていたと推測して間違いあるまい。土民の蜂起は数万人規模に膨らんだ。京都を完全に封鎖し、東寺を占拠、幕府に徳政令を求める。この要求が認められなければ、大胆にも「伽藍」に火を放つと脅迫。幕府は一揆の制圧を断念。遂に民衆は幕府による徳政令を勝ち取る。民衆が自らの実力をもってして政治過程に影響力を行使し、法の施行を実現したのは、わが国の政治史上初めてのことである。

山城国一揆

応仁元年(1467)正月、京都を戦場とし灰燼に帰する「内乱」の火蓋が上御霊社境内で切って落とされた。世にいう応仁の乱である。
この内戦の撃鉄を引いたのは山城守護職相続をめぐっての畠山家の内紛である。
畠山家が山城守護職を独占するのは厳密に言えば畠山持国管領と山城守護を兼務するようになった宝徳元年(1449)以来のことだが、持国の死後、その跡を継いだ実子の義就と猶子の政長の対立が激化。この内紛に細川勝元山名持豊という瀬戸内海の制海権を二分する有力守護大名が加担することで内紛が泥沼の「内乱」に転化したのである。
よく知られているように東軍を率いたのは細川勝元、西軍を率いたのは山名持豊。両雄とも文明五年(1473)に没するが、畠山家の内紛は終息することなく、「内乱」は継続される。
文明十七年(1485)に立ち上がった山城国一揆は徳政令を要求するものではなかった。山城を舞台にして交戦を続ける両畠山軍に対して、久世・綴喜・相楽の南山城三郡からの撤兵を求めたのである。
「山城の国人集会す。上は六十歳、下は十五六歳。同じく一国中の土民群集す」(『大乗院寺社雑事記』)
文明十七年十二月十一日、三十六人衆と呼ばれる上は六十歳から下は十五、六歳までの国人衆が石清水八幡宮に参詣して「集会」(しゅうえ)を開いた。
万灯を掲げ、神水をくみ交わしてのことであった。戦火に苦しむ「土民」も石清水八幡宮に群集した。「集会」の成否を見届け、同時に「集会」に対する武力による干渉を排除する役割を「土民」は担ったのであろう。
この「集会」で両畠山軍に退陣を求める決議がなされた。翌日から両畠山軍との交渉が始まった。もし南山城から平和裡に撤退しないのであれば一揆の武力をもって対抗する。交渉には強い姿勢で臨んだ。十二月十七日、両畠山軍を南山城から排除することに成功する。紛れもなく国一揆側の勝利であった。
翌年二月、宇治平等院にて「集会」が開かれる。南山城における「自治」を確立するための「国中掟法」の制定を決めたのである。ここに「惣国」が誕生する。山城国一揆が守護権を継承したのである。
もっとも細川政元に多額の賄賂を贈ることも決めた。それだけ一揆側が政治的に成熟していたということでもあるわけだが、賄賂を捻出するために村々に段銭を賦課することになった。このため国人側も相当の犠牲を払うことになった。
「惣国」では「国中掟法」のもとに政治がなされた。必要に応じて「集会」が開かれ、方針が決定された。国一揆による「自治」が実現。国一揆は拡大を遂げ、明応元年(1492)には百人衆にまで成長を遂げていたことが確認できる。
国人による民主主義は民主的に崩壊する。
山城国守護職のこと、伊勢守をもって申し定むべき旨を、国人等が申し合す」(『大乗院寺社雑事記』)
国一揆伊勢貞宗を守護として迎え入れる決定をしてしまうのである。
伊勢貞宗山城国守護として幕府に任命されたのは明応二年(1493)の二月ごろ。国一揆側は当然のことながら、これを承認しなかった。ところが、半年後の八月には承認してしまうのである。守護を排除する「惣国」の政治という「国中掟法」の大前提を自ら破壊してしまったのである。
九月になると伊勢貞宗は大和の古市澄胤に綴喜・相楽二郡の知行が与えられ、その代官が入部する。この入部の承認をめぐって国一揆は賛成派と反対派に遂に分裂し、自治は崩壊する。
ともあれ、応仁の乱終結は幕府によって「天下静謐」の祝宴が開かれた文明九年(1477)と考えられて来たが、その本質的な意味を念頭に置くならば、応仁の乱に終止符を最終的に打ったのは、山城国一揆の成立であったことは間違いあるまい。繰り返すが、三十六人衆を支えたのは「集会」に群集した「土民」の「実力」に他ならなかったのである。民衆の力によって「内乱」を「平和」に転化せしめたということである。

一向一揆

一向一揆は長亨二年(1488)加賀守護富樫政親を滅ぼし、北国に「百姓の持ちたる国」を一世紀にわたり現出せしめたし、また織田信長の「天下布武」を掲げての天下統一の前に立ちはだかった最大最強の敵であったと言って良いだろう。門主顕如本願寺に籠城して信長と戦った石山合戦は元亀元年(1570)に本願寺が挙兵してから、顕如が石山を退去する天正八年(1580)まで十年間に及んだ。この本願寺の挙兵に連動して立ち上がった長嶋の一向一揆も信長を窮地に追い込んだし、信長からすれば窮地に追い込まれたからこそ、降伏したにもかかわらずジェノサイドをもって応えたのである。信長をして一向一揆に恐怖感を抱かざるを得なかったのだと想像しても、あながち的外れとは言えまい。
本願寺教団がこのように大規模な一揆を起こすまでに経済力を高め、軍事力を高めることができたのは何故だろうか。蓮如の「行動」は無視できまい。蓮如は紛れもなく天才的な工作者(=オルガナイザー)であり、本願寺の教線を一気に拡大していった。しかし、問うべきは蓮如の「行動」を支え、蓮如亡き後も本願寺の「行動」を加速させていった「思想」なのではないだろうか。「思想」が胎胚せざるをえない「宗教」という病と言うべきか。
「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて願をおこしたもう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だに往生すれ、ましてや悪人はと、仰せ候いき」
親鸞の門弟である唯円によって書かれた『歎異抄』第三章の後半の一節である。『歎異抄』は唯円本願寺を開いた親鸞の曾孫覚如に依頼されて親鸞から直接聞いた話をまとめたものである。親鸞の死後、「異端」が相変わらず跋扈するなか、何が「正統」かを明確にするためにまとめられたと言われているが、『歎異抄』がむしろ「正統」と「異端」の境界線を粉砕してしまう役割を果たしたのだと言えはしまいか。引用したのは「悪人正機」について親鸞が語った部分である。親鸞は「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」という常識を転倒してしまって、「他力をたのもたてまつる悪人」であることが「往生の正因」だと言い放っているのだ。
一般的に流布する解釈からすれば、ここで言う「悪」とは法や掟、道徳に反するものではなく、聖者でないから煩悩を自力で脱することのできない凡夫という程度の意味になる。しかし、そのように消極的に理解するのではなく、積極的に解釈することもできるはずだ。法や掟、道徳に反する「悪」も包含する「悪」であり、そのような「悪」を積極的になす「悪人」であることが「往生の正因」なのだと。言わば「造悪論」である。『歎異抄』のなかの言葉を使えば「本願ぼこり」ということになろう。
歎異抄』第十三章は実に示唆的である。唯円親鸞から「わが言う言葉を信じるか」と問いかけられる。弟子の唯円からすれば「当然です」と答えるしかなかったろう。しかし、親鸞は畳み掛けるようにして言う。「さらば、言わんこと違うまじきか」と。頷く唯円に対して親鸞は何と「人を千人殺してみなさい。そうすれば必ず往生できるのだ」と言うのだ。「私の器量では千人はおろか一人として殺せない」と逃げる唯円に対して親鸞は逃がさない。ならば何故、親鸞の言うことに背かないと応えたのかと。そして、諭すように語り始める。
「これにて知るべし。何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、即ち殺すべし。しかれども一人にても叶いぬべき業縁なきによりて害せざるなり。我が心の良くて殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも、百人・千人を殺すこともあるべし」
 人を千人殺すか、それとも一人も殺せないかは善悪の問題ではなく、「業縁」の問題だと親鸞は言っているのである。人は誰でも「契機」さえ手にすれば何人でも人を殺すものだと。確かに唯円はこのエピソードに続けて、親鸞から「薬あればとて、毒を好むべからず」という内容の手紙をもらったことがあると記し、いわば慌てて故意に「悪」をなす「造悪論」を戒めるのだが、しかし、だからと言って「造悪論」を否定しきっているわけではないのである。すべては「業縁」の問題にしか過ぎないと言っているのである。「本願ぼこり」を否認することも「心幼きこと」なのである。そこに新たな、しかも強力な「造悪論」の余地が生まれるのではないだろうか。そして、現実的に生まれた。
加賀一向一揆の掲げた旗には、こうあったことはよく知られている。
「進者往生極楽 退者無間地獄」
 
法華一揆

法華一揆の評価が一向一揆に比べて低いのは、わが国の講座派マルクス主義の問題である。予め用意されたイデオロギーの鋳型に史料を無理矢理押し込めてしまったのである。即ち、土一揆一向一揆エンゲルスの『ドイツ農民戦争』の線で解釈してしまったのである、誤読してしまったのである。
ここに土一揆一向一揆は貧しい農民を叛乱の主体としていたため「革命的」であり、土倉や酒倉といった長者=高利貸=金融資本も含む町衆を主体としていたため「反動的」であるという図式が成立することになる。近世に残された絵画的資料が一向一揆を貧しい農民の叛乱として描いていたことも、こうした解釈に正統性を与える根拠になったことは間違いない。しかしながら、山科本願寺石山本願寺に形成された寺内町は、まさしく都市というしか他に呼びようもないだろうし、その繁栄ぶりは貧しさとは程遠いものであった。
逆に法華一揆の軍事力を支えた人々の誰もが豊かであったろうか。後藤、本阿弥、茶屋、野本といった京都経済を支えた長者は確かに豊かであったろう。彼らが法華一揆のリーダーであったことも間違いあるまい。だが、彼らが法華一揆の総てではない。その周囲に結集した民衆を想像せよ。そこには河原者と呼ばれた被差別民も含めて、貧しく名もない法華門徒が結集し、法華一揆の軍事力を支えたのではなかったか。
「天文元年の頃、京都に日蓮宗繁盛して、毎月二ヶ寺三ヶ寺宛、寺院出来し、京中大方題目の巷となり」(『昔日北華録』)
天文元年(1532)八月七日、革堂や六角堂の鐘が打ち鳴らされる。一向一揆の脅威がいよいよ京の町に迫る。六条堀川の本国寺に続々と下京の法華衆が集結する。
「南無妙法蓮華経!南無妙法蓮華経!!」
力強い題目が寺中に響き渡る。本国寺は東西二町、南北六町の広大な寺領を有し、百を超える塔頭を従えていた。細川晴元の衆であった山村正次が武装した法華衆を率いた。「打廻」が開始される。武力をもってする集団示威行動だ。京都に構える本願寺系の寺院が次々と破却された。法華一揆にとって本願寺は「念仏無間」の邪法に他ならない。法華経の正法を忘れ、邪法に迷えば人民は苦しむのだ。
八月十二日、法華一揆は近江守護・六角定頼の軍勢と合流して本願寺系の有力寺院であった大津・顕証寺を陥落させる。細川晴元・六角定頼・法華一揆の三万に及んだと言われている連合軍は山科本願寺を包囲。八月二十三日、総攻撃を開始。八月二十四日、山科本願寺炎上。一向一揆の脅威が一掃されて、法華一揆による京都の解放が実現される。
天文元年(1532)から天文五年(1536)までの間ではあったが、法華一揆はその軍事力を背景にして正法圏を京の町に樹立する。地子銭不払運動を展開し、「畿内の諸公事を評判」するまでに「政治」に関与する。まさしく京都コミューンを現出せしめたのである。天文二年六月、幕府は山門(延暦寺)からの訴えを理由にして祇園の神事を停止するが、人民は自らの手で七月十四日に祇園会を挙行する。法華一揆は早すぎた市民革命であったのだ、そう思う。
有力町衆門徒「集会の衆」による「自治」の成立は洛中に多くの所領や権利(まあ利権だ)を有していた旧仏教系の大寺に当然、脅威を与えた。ことに「王城鎮護」をイデオロギーとする山門との対立は深まるばかりであった。この両者の「戦争」の端緒を切り拓いたのは「松本問答」と言われている宗論。比叡山西塔の華王房という僧を俗人の法華門徒が打ち負かせてしまったのである。山門はこの言論戦による敗北以後、戦備を整えることになる。
天文五年七月二十二日、遂に山門の攻撃が始まる。松ヶ崎城の戦闘を経て、双方の軍勢は加茂川を挟んで向かい合う。膠着状態が続く。六角の調停で和議が進められている。そんな風聞がどこからともなく流れる。山門と組んだ六角の謀略であるとも知らず、法華一揆の側に気の緩みが生じる。その隙を山門と六角の連合軍は見逃さない。七月二十二日、総攻撃が開始される。京都炎上。下京は全焼。上京も三文の一が焼失。法華宗は堺に「亡命」を余儀なくされる。
こうして早すぎた「市民革命」の幕は閉じられる。