断片の昭和史(5)日本共産党の大森銀行ギャング事件

大森銀行ギャング事件を『警視庁史昭和前編』に従って再現してみよう。
昭和七年(1932)十月六日午後四時ごろ。いずれも茶のバーバリーコートにソフト帽を目深にかぶり、マスクで顔を覆った三人組が川崎第百銀行大森支店の裏口から事務室に乱入する。
三人組は拳銃で武装していた。しかも一人は二丁拳銃、この男ドアを押して店内に入るや否や床板に一発発砲。銃声に驚き支店長が振り向く。二丁拳銃が歩み寄る。銃を支店長に突きつける。「電話を切れ」と脅しながら、支店長の足元に再び発砲。銃は六ミリ口径の大型ブローニングであった。
別の男が「みんな集まれ」と命じる。十一人の行員は応接室の前に並ばされる。恐怖に震え上がる行員に対する次なる命令は「下を向け」であった。その間、一人が出納係の机上に置かれた札束を鞄に詰め終えると落ち着き払った態度で侵入口から逃走。残りの二人は逃走を援護すべく行内に残る。現金を持った男が表通りに出た頃合を見計らって二人は現場を後にして自動車に乗り込む。
三人組は中村経一、西代義治、立岡正秋。中村と西代は日本共産党員。当時の日本共産党は非常時共産党と呼ばれている。中村が二挺拳銃の男である。立岡は犯行の三時間前に銀座のレストランでスカウトされたばかりの不良である。主犯は実行部隊に加わらなかったが、日本共産党で家屋資金局員を務めていた今泉善一であった。
『警視庁史昭和前編』によれば、牛込警察署で取調べを受けていた博徒が「以前、別の暴力団員に拳銃で脅かされた」と供述。この暴力団を捜査し、拳銃の密売人を逮捕。密売人を追及したところ以前サイトウと名乗る男に拳銃二十五丁を売り、今度も拳銃六丁と実弾六〇〇発を売る予定だと自供。警察はサイトウを大森銀行ギャング事件の関係者と推測し、待ち合わせ場所に張り込み、サイトウを逮捕する。
サイトウは当初、黙秘したが、彼の所持金に川崎第百銀行大森支店にあったはずの十円紙幣が混ざっていたことが判明し、これを追及したところ遂に自分は今泉善一であることを自供。以後、今泉の供述によって大森銀行ギャング事件の一味を芋蔓式に検挙することになる。もっとも、この辺の記述を鵜呑みにするわけにはいくまい。
実は、この大森銀行ギャング事件、すべてが警察に筒抜けであった可能性が高いのである。何しろ家屋資金局のトップは当時の日本共産党の最高幹部にして、「スパイM」こと松村昇に他ならなかったのである。松村を介して特高は予め大森銀行ギャング事件の全容を掴んでいたはずである。
スパイ松村の最大の役割は日本共産党を破壊することにあるわけだが、このスパイとクートベ帰りの風間丈吉によって武装共産党の壊滅後、風前の灯となっていた党が再建されるのである。松村は自らのスパイとしての任務を達成するために日本共産党の再建に全力を尽くしていたというわけである。村松は組織部長、軍事部長、家屋資金局長も兼任している。カネも組織も軍事も掌握していたということである。ある意味、非常時共産党を仕切っていたのは委員長の風間ではなく、ナンバー2にしてスパイの松村であると言い得る状態にあったのである。
即ち、日本共産党はスパイの手助けがなければ再建も覚束なかったのである。マルクス・レーニン主義による革命を標榜する前衛党にとって、これほど恥ずかしい「歴史」はないのではないか。そんなスパイが再建した日本共産党に若き日の宮本顕治が入党する。
ところで―。戦後の左翼運動を震撼させ、一気に左翼運動に退潮をもたらすことになる連合赤軍事件は大森銀行ギャング事件からスパイ査問事件に至るまでの戦前日本共産党の悲劇的なパロディであったのではないだろうか。